~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅵ』 ~ ~

 
== 『 永 遠 の 0』 ==
著 者:百田 尚樹
発 行 所:㈱ 講 談 社
 
 
 
 
 
狂 気 (十五)
しかし米軍にとって奇跡が起こった。粟田艦隊が突如、反転したのだ。
これが史上有名な「粟田艦隊の謎の反転」だ。
一体なぜ、粟田艦隊は反転したのか。後年様々な説が飛びかかったが、このことについて粟田長官は戦後ついに一言も弁明せずに亡くなったという。
粟田長官はハルゼーの機動部隊が小澤艦隊によってフィリピンのはるか北におびき出されていたことを知らなかった。多くの航空攻撃を受けて、敵機動部隊はまだ近くにいると判断したのかも知れない。そしてこのままレイテに突入すれば、艦隊は全滅すると考えたのかも知れない。
歴史に「if」はないが、もしあの時、粟田艦隊がレイテに突入していたなら、ほとんど丸裸の米輸送船団は全滅していただろう。そうなれば米軍のフィリピン侵攻作戦は大いなる蹉跌を被ったことは間違いない。大量の物資と人員を失った米軍はその作戦の立て直しに、あるいは一年以上はかかったかも知れない。少なくとも、この後に起こったレイテ島の陸上戦闘における日本陸軍の何十万人にも及んだ戦死者は防げただろう。
しかし粟田艦隊の反転で、アメリカ軍に一矢を報いる最後の機会を逸した。小澤艦隊の多くの将兵の犠牲はすべて無駄になった。また敵攻撃機の攻撃を一身に引き受けてスリガオ海峡に沈んだ「武蔵」の奮戦も無駄になった。
敷島隊の特攻が行なわれたのは、粟田艦隊の反転の翌日だった。しかし勝機は既に去ったいた ──。

当初、特攻はレイテの「捷一号」作戦のためのものだった。粟田艦隊のレイテ突入を援護すべく、敵空母の甲板に決死の体当たりを敢行し、飛行甲板を使用不可能にしてしまえば、敵の艦上機の攻撃はなくなる ── 特攻はあくまでレイテだけの限定作戦のはずだった。
しかし粟田艦隊が去り、「捷一号」作戦が失敗に終わっても特攻は終わらなかった。
特攻が一人歩きを始めたのだ。長官たちが狂気に取りかれたのか ──。
マバラカットからも連日、特攻機が出撃した。わしはなぜか特攻にまわされず、直掩任務につけられた。数少ない熟練搭乗員だったからかも知れないが、特攻直掩もまた過酷だった。日本軍の必殺攻撃の洗礼を受けた米軍は邀撃態勢を恐ろしく強化させていた。高性能の米戦闘機が何十機も待ち構える中を、わずか数機の直掩機で特攻を守れるはずはない。多くの直掩機が特攻機を守るために犠牲となった。日中戦争以来の大ベテラン南義美少尉も未帰還となった。
南義美少尉は歴戦の搭乗員で、真珠湾攻撃から数々の海鮮を戦って来た、まさに海軍航空隊の至宝ともいえる戦闘機乗りだった。下士官からの叩き上げで、人間的にも素晴らしい人だった。やさしく物静かな人で、上海では手取り足取り教えて貰った。
レイテ沖海戦では空母の搭乗員だったが、帰るべき母艦を失い九死に一生を得て比島に辿り着いたのだ。そして不運にも特攻直掩任務で亡くなった。
わしもここで死を覚悟した。
数日後、攻撃から帰る途中、発動機の不調でニコルス基地に着陸した。そこで何と宮部と再会した。聞けば、宮部は「瑞鶴」に乗っていて、敵機動部隊を攻撃した後、この飛行場に降り立ったのだった。
宮部も特攻のことは知っていた。関行男大尉の敷島隊のことは全軍に布告されていた。ニコルス基地ではまだ一機の特攻も出していなかったが、搭乗員たちの志気はこれ以上にないくらい落ちていた。
戦後、特攻のことが書かれた本で、敷島隊の特攻が全軍に布告された時、全搭乗員の志気は大いに上がったと書かれたものも少なくないが、決してそんなことはない搭乗員の志気は明らかに下がった。当り前だ!
わしがニコルス基地に着いた翌日、全搭乗員に集合がかかった。
指令や飛行隊長たちの緊張した様子から、この地にも来るものが来たなと思った。おそらく他の搭乗員たちも皆、そう思ったことだろう。
司令は、今や日本は未曾有の危難の時である。と大仰な言葉を振り回した後に、
「特攻攻撃に志願する者は前へ」
と言った。全員が一歩前へ踏み出した。すでに敷島隊のことを聞き及んでいる搭乗員たちは覚悟していたのだろう。わしもマパラカトと同じように一歩出た。今更やめるとは言えるものではない。
その時わしは信じられない光景を見た。ただ一人、その場から動かない男がいたのだ。宮部だった。
飛行隊長が顔を真っ赤にさせて、司令に代わって大きな声で怒鳴った。
「志願する者は前へ!」
しかし宮部は一歩も動かなかった。その顔は真っ白だった。飛行隊長は軍刀を引き抜くと、再び「志願する者は一歩前へ出ろ!」と言った。
しかし宮部は石像のように動かなかった。飛行隊長の体は怒りでぶるぶると震えた。
「宮部比曹長」
飛行隊長が怒鳴った。
「貴様、命が惜しいか」
宮部は答えなかった。
「どうなんだ。答えろ!」
宮部は叫ぶように言った。
「命は惜しいです」
飛行隊長は信じられないものを見たように口をあんぐりあけた。
「貴様は ── それでも帝国海軍の軍人か」
「軍人であります」
宮部ははっきしした声で言った。飛行隊長は司令の方を見た。司令は静かな声で「解散する」と言った。
士官が「解散」と怒鳴り、搭乗員たちはみな整列をといて宿舎に戻った。宮部に声をかける者は誰もいなかった。
2024/12/11
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