翌朝、出撃はなかった。隊内は異様な雰囲気に包まれていた。昨日の「特攻志願」が搭乗員の心に重くのしかかっていたのだ。
わしは宮部を誘って、飛行場から少し離れた丘の上に登った。二人とも一言も喋らなかった。
小高い丘の上に来た時、わしは草の上に座った。宮部も座った。
やがて宮部が言った。
「俺は絶対に特攻に志願しない。妻に生きて帰ると約束したからだ」
わしは黙って頷いた。
「今日まで戦って来たのは死ぬためではない」
わしは何も言えなかった。
「どんな過酷な戦闘でも、生き残ろ確率がわずかでもあれば、必死で戦える。しかし必ず死ぬと決まった作戦は絶対嫌だ」
その思いはわしも同じだった。
しかし、今思う。あの当時、何千人という搭乗員がいたはずだが、こんなことを口にした搭乗員がはたして何人いたか。しかしこの宮部の言葉こそ、ほとんどの搭乗員たちの心の底にある真実の思いだった。
しかしその時は宮部の言葉が恐ろしかった。何かしら得体の知れない不気味な恐怖を感じたのだ。今思えば、それは自分自身の姿を見ることへの恐怖だったのだ。
ふと宮部は言った。
「谷川は初めて志願したのか」
「二度目だ。最初はマバラカットで志願した」
宮部は「俺には妻がいる」と言った。
「俺にもいる」
そう言うと、宮部は驚いた顔をした。
わしは日本を発つ四日前に結婚したことを告げた。
「奥さんを愛しているのか?」
宮部の問いに、わしは思わず頷いていた。そうか、わしは妻を愛していたのか ──。
「それなら、なぜ特攻なんか志願した」
宮部は非難するように言った。
「俺は帝国海軍の搭乗員だ」
わしは怒鳴った。そして泣いた。戦闘機乗りになって初めて泣いた。宮部は何も言わずじっと見ていた。
わしが立ち上がろうとした時、宮部は言った。
「いいか、谷川、よく聞け。特攻を命じられたら、どこでもいい、島に不時着しろ」
わしは驚いた。軍法会議にかけられたら、間違いなく死刑に値するほど恐ろしい言葉だった。
「お前が特攻で死んだところで、戦局は変わらない。しかし ── お前が死ねば、お前の妻の人生は大きく変わる」
わしの脳裏に加江の姿がうかんだ。
「言うな、俺は特攻を命じられれば、行くだけだ」
宮部はもう何も言わなかった。
その時、警報が鳴り響き、遅れて遠くに爆音が聞こえた。敵機の来襲だ。
わしらは防空壕に走った。飛行場では、すでに整備員たちによって飛行機が掩体壕に入れられようとしているところだった。この頃には、空襲に邀撃機が上がることはなかった。少数機が邀撃に上がって敵の大編隊に撃墜されるよりも。機体を温存する策が取られていた。ニコルス基地には稼働が可能な機体は数機しかなかったのだ。
しおかしこの日はついていなかった。敵戦闘機の発見が遅れ、多くの航空機が地上銃撃を」受けた。結局、この日の空襲でニコルス基地の稼働機は一機もなくなった。
まもなくニコルス基地の搭乗員は内地帰還が決まった。
わしらはクラークきちからやって来た輸送機に乗り、台湾を経由して、九州の大村に着いた。そこで搭乗員たちはそれぞれもといた航空隊に戻ることになった。
宮部とは大村で別れた。最後にどんな会話を交したかは覚えていない。宮部とはその後二度と再会することはなかった。
わしは岩国で教官をやった後、横須賀航空隊に着任して、本土防空戦を戦った。二十年の三月からは南九州から多くの特攻機が沖縄に飛んだ。終戦末期は「全機特攻」が叫ばれていた。その頃はもう志願がなくても特攻命令があったとも聞いている。
わしもいつかは特攻を命じられると思っていたが、幸いなことにその日は来ず、三沢で終戦を迎えた。宮部が特攻で死んだと知ったのは、かなり経ってからだった。
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