戦争が終わって村に帰ると、村の人びとのわしを見る目が変わっていた。穢れたものでも見るような目で眺め、誰もわしに近寄ろうとはしなかった。村人たちは陰でわしのことを「あいつは戦犯じゃ」と言っていた。ある日、川の土手を歩いていると、村の子供たちが「戦犯が歩きよる」と言ってわしに向かって石を投げた。
悔しくてたまらなかった.昨日まで「鬼畜米英」と言っていた連中は一転して「アメリカ万歳」「民主主義万歳」と言っていた。村の英雄だったわしは村の疫病神になっていたのだ。父は亡くなっていて、わしは跡を継いだ兄の家の離れで加江と暮らしていたが、兄は明らかにわしを厄介者扱いした。
誰が流したデマだろうが、真珠湾攻撃に参加したパイロットは戦犯として絞首刑になるという噂が広まった。戦犯を匿かくまった者や村も罰せられると。それを聞いたわたしは腹をくくった。
そんなある日、兄が五升の米を餞別せんべつ代わりにくれ、これで逃げろと言った。体のいい追い出しだった。わしは加江を連れて故郷を後にした。
東京へ出たのは十月の終りった。一面が焼け野原だった。わしと加江はトタンで囲ったバラックで寝泊りした。毎日仕事を捜したが、何もなかった。五升の米はまもなく底をつき、わしは日雇い人夫のようなことをして何とか喰いつないだ。
あの頃は本当に苦しかった。街には進駐軍の兵士がいたるところにいた。アメリカ兵は日本の女を連れていた。わずか三ヶ月前まで米軍の戦闘機と戦っていたのが、嘘のようだった。
あの時、なんとか食べることが出来たのは、加江が「裁縫出来る人求む」という貼紙を見つけて、小さな服屋にわしと一緒に住み込みで雇って貰えたからだ。二人は二畳ほどの物置で暮らしたが、それまでバラックで寝泊まりしていたことを思うと天国だった。
翌年、わしは海軍の元上官のつてで水道局の臨時職員に雇って貰えた。しかし一年後、公職追放にかかって馘くびになった。十一年にわたる海軍生活でわしの最終階級は中尉だったが、それで職業軍人とみなされたのだ。わしが仕事を失ったことを知った加江は、わしを慰めてくれた。
「職業軍人とは何とひどい言葉でしょう。日本のために命懸けで戦ってきた人を、まるで金儲けで戦ったように言うのは、絶対許せません」
あの時の加江の言葉ほど嬉しかったものはない。わしはこの女のために生きると決意した。
わしは自分で商売することを決めた。様々な商売に手を出した。何度もだまされ、何度も裏切られた。戦後の人々は戦前の人々とはまるで違う人たちだった。人にだまされた夜、戦争で死んだ戦友たちを思い出し、彼らの方が幸せかも知れないと思ったこともあった。こんな日本を見なくてすんだ彼らの幸運を羨うらやんだ。
しかしそれは終戦直後の混乱と貧困による一時的なものだった。多くの日本人には人を哀れむ心があり、暖かい心を持っていた。自分が生きるのさえ大変な時にも人を助けようとする人がいた。だからこそ、わしたち夫婦もあの悲惨な時代を生き延びることが出来たのだと思う。東京に小さいながらもビルを持てたのも多くの人に助けられたからだ。
本当に日本人が変わってしまったのはずっと後のことだ。
日本は民主主義の国となり、平和な社会を持った。高度経済成長を迎え、人々は自由と豊かさを謳歌した。そかしその陰で大事なものを失った。戦後の民主主義と繁栄は、日本人から「道徳」を奪った ── と思う。
今、街には、自分さえよければいいという人間たちが溢あふれている。六十年前はそうではなかった。
わしは、少し長く生き過ぎたようだ。
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