~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅵ』 ~ ~

 
== 『 永 遠 の 0』 ==
著 者:百田 尚樹
発 行 所:㈱ 講 談 社
 
 
 
 
 
狂 気 (十九)
老人ホームを出た後、姉がハンカチで目を拭いているのがわかった。
「私、悔しい」
と彼女は言った。
「おじいさんがみんなを幸せにして、自分一人が亡くなったのよ。そんなのって、ありなの、不公平すぎる」
「おじいさん一人が死んだわけじゃないよ。あの戦争では三百万人の人が亡くなっている。将兵だけでも二百三十万人も戦死してるんだ。おじいさんはその中の一人に過ぎない」
姉は何も言わなかった。
タクシーの中でも姉は一言も喋らなかった。
車を降りて、駅のホームに向かっている時、姉が突然みつくように言った。
「さっき二百三十万人の戦死者の一人って言ったけど ── おばあちゃんにとっては、おじいちゃんはたった一人の夫だったのよ。それにお母さんにとってもただ一人の父じゃない」
「おばあちゃんにとっておじいちゃんがただ一人の夫だったように、亡くなった二百三十万人の人にもそれぞれかけがえのない人がいたんだと思う」
姉は驚いたようにびおくを見た。
「こんなことを言うと笑われるかも知れないけれど、今、ぼくはあの戦争で亡くなった多くに人の悲しみを感じてるんだ」
姉は深く頷いて、「笑わない」と言った。
新幹線では二人とも黙っていた。
姉はずっと何かを考えている様子だったし、ぼくはぼくで谷川の話を頭の中で反芻はんすうしていた。目をとじると、祖父の姿が浮んで来るような気がした。しかいそれは陽炎のようにおぼろげで、はっきりした像ではとらえられなかった。
新大阪を過ぎてしばらくした時、不意に姉が話しかけてきた。
戦争に行ったひとの話を聞いていると、本当に兵士たちは使い捨てられたって気がする」
ぼくは頷いた。
「赤紙一枚でいくらでも補充がつくと思っていたのね。昔の兵隊さんは、上官に、お前たちよりも馬の方が大事なんだって言われたって、お前たちなんか一銭五厘でいくらでも代わりがあるって」
「一銭五厘だって?」
「赤紙、つまりハガキ一枚の値段よ。つまり、陸軍の兵士も海軍の兵士も、そしてパイロットでも、軍の上層部にとっては、わずか一銭五厘のハガキ代でいくらでも集められるものだったのよ」
「それでもみんな国のために勇敢に戦ったんだね」
姉はくやしそうな顔で頷いた。
少し沈黙が続いた後、姉が口を開いた。
「ちょっと聞いてくれる?」
ぼくは「うん」と言った。
「私、太平洋戦争のことで、いろいろ調べてみたの。それで、一つ気がついたことがあるの」
「何?」
「海軍の将官クラスの弱気なことよ」
「日本軍で、強気一点張りの作戦をとってばかりじゃななかったのかな」
「強気というよりも、無謀というか、命知らずの作戦をいっぱいとっているのよね。ガダルカナルもそいうだし、ニューギニアの戦いもしうだし、マリアナ沖海戦もレイテ沖海戦もそう。有名なインパールもそう。でもね、ここで忘れちゃいけないのは、これらの作戦を考えた大本営や軍令部の人たちにとっては、自分が死ぬ心配が一切ない作戦だったことよ」
「兵隊が死ぬ作戦なら、いくらでも滅茶苦茶な作戦を立てられるわけか」
「そう。ところが、自分が前線の指揮官になっていて、自分が死ぬ可能性がある時は、逆にものすごく弱気になる。勝ち戦でも、反撃を怖れて、すぐに退くのよ」
「なるほど」
「弱気というのか、慎重というのか ── たとえば真珠湾攻撃の時に、現場の指揮官クラスは第三次攻撃隊を送りましょうと言ってるのに、南雲長官は一目散に逃げ帰っている。珊瑚海海戦でも、敵空母のレキシントン沈めた後、井上長官はポートモレスビー上陸部隊を引き揚げさせている。もともとの作戦が上陸部隊支援にもかかわらずよガダルカナル緒戦の第一ソロモン海戦でも三川長官は敵艦隊をやっつけた後、それで満足して敵輸送船団を追いつめずに撤退している。そもそもは敵輸送船団の撃破が目的だったのに、この時、輸送船団を沈めていれば、後のガダルカナルの悲劇はなかったかも知れない。ハルゼーが言っていたらしいけれど、日本軍にもう一押しされていたらやられていた戦いは相当あったようよ。その極めつけが、さっき聞いたレイテ海戦の粟田長官の反転よ」
2024/12/15
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