~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅵ』 ~ ~

 
== 『 永 遠 の 0』 ==
著 者:百田 尚樹
発 行 所:㈱ 講 談 社
 
 
 
 
 
狂 気 (二十)
姉の口から詳しい戦機の話が出てきたので驚いた。相当、様々本を読んだのだなと思った。
「なぜ、そんなに弱気な軍人が多いの」とぼくは聞いた。
「多分、それは個人の資質の問題なのだろうけど、でも海軍の場合、そういう長官が多すぎる気がするのよ。だからもしかしたら構造的なものがあったと思う」
「どういうこと」
「将官クラスは、海軍兵学校を出た優秀な士官の中から更に選抜されて海軍大学校を出たエリートたちよ。言うなれば選りすぐりの超エリートというわけね。これは私の個人的意見だけど、彼らはエリートゆえに弱気だったんじゃないかって気がするの。もしかしたら、彼らの頭には常に出世といおう考えがあったような気がしてならないの」
「出世だって ── 戦争しながら?」
穿うがちすぎかも知れないけれど、そうとしか思えないフシがありすぎるのよ。個々の戦いを調べていくと、どうやって敵を撃ち破るかではなくて、いかにして大きなミスをしないようにするかということを第一に考えて戦っている気がしてならないの。たとえば井崎さんが言ってたように、海軍の長官の勲章の査定は軍艦を沈めることが一番のポイントだから、艦艇修理用のドックを破壊しても、石油タンクを破壊しても、輸送船を沈めても、そんなのは大して査定ポイントが上がらないのよ。だからいつも後回しにされる ──」
「でも、だからって、出世を考えていると言うことはないんじゃないかな」
「たしかに穿ちすぎた考え方かも知れない。でも十代半ばに海軍兵学校に入り、ものすごい競争を勝ち抜いてきたエリートたちは、狭い海軍の世界の競争の中で生きて来て、体中からだじゅう出世意欲のことが染みついていたと考えるのは不自然かな。特に際立った優等生だった将官クラスはその気持が強かったように思うんだけど ──。太平洋戦争当時の長官クラスは皆、五十歳以上でしょう。実は日本海海戦から四十年近くも海鮮をしていないのよ。つまり長官クラスは海軍に入ってから、太平洋戦争までずっと実戦をせずに、海軍内での出世競争の世界だけで生きてきた ──」
ぼくは心の中で唸った。姉の意外な知識の豊富さにも驚かされたが、それ以上に感心したのが、鋭い視点だった。
姉は続けた。
「当時の海軍について調べてみると。あることに気がついたのよ。それは日本海軍の人事は基本的に海軍兵学校の席次 ──ハンモックナンバーって言うらしいけど、それがものを言うってこと」
「失業成績が一生を決めるってことだね」
「そう、つまり試験の優等生がそのまま出世していくのよ。今の官僚と同じね。あとは大きなミスさえしなければ出世していく。極論かも知れないけれど、ペーパーテストによる優等生って、マニュアルにはものすごく半面、マニュアルにない状況には脆い部分があると思うのよ。それともう一つ、自分の考えが間違っていると思わないこと」
ぼくは背もたれに寄りかかっていた上半身を起こした。
「戦争という常に予測不可能な状況に対する指揮官がペーパーテストの成績で決められていたというわけか」
「私は、日本海軍の脆さって、そういうところにあったんじゃないかなと思うの」
ぼくは大きく頷いた。
「アメリカはどうなの?」
「そこまでは詳しく調べていないけど、出世に関してはアメリカも同じみたいね。海軍大学の卒業席次が大きくものを言う。ただしそれはあくまでも平時の場合で。いざ戦争となったら、戦闘の指揮に優れた人物が抜擢ばってきされるらしいの。太平洋艦隊司令長官のニミックは何十人とごぼう抜きにしたわ。もちろん失敗の責任もきちんと取らされる。日本軍の攻撃によって真珠湾の艦隊を撃破されたことで、太平洋艦隊司令長官のキンメルは解任された上に、大将から少将に降格させられている。真珠湾での敗北はきっちりと責任を取らせるというケジメがあるみたい。もう一つ、アメリカ海軍に弱気な指揮官はほとんどいない、皆、驚くほどアグレッシブよ」
姉はどこまで調べているんだと思った。昔から一旦のめり込むとすごい集中力を見せたが、今度の調査では、かなり本気になっているようだった。元々頭は悪くない。
「なるほど、アメリカの強さって、そこにあるのかも知れないね」
「今、日本海軍のことを言ったけど、帝国陸軍も同じだったみたいよ。戦前の陸軍大学校と海軍大学校はある意味、東大以上に難関だったらしい。士官から選抜されて受験するだけで官報に載ったくらいだから、おそろしく難しかったんだと思う。なぜこんな話をするかというとね、かつて日本の軍隊について調べれば調べるほど、今の日本の官僚組織に通じるところがあるような気がしてならないの」
ぼくは姉の顔をあらためて見た。ぼくはずっと姉の本質を理解していなかったのかも知れない。
2024/12/18
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