~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅵ』 ~ ~

 
== 『 永 遠 の 0』 ==
著 者:百田 尚樹
発 行 所:㈱ 講 談 社
 
 
 
 
 
桜 花 (一)
数日後、ぼくは姉の携帯に電話した。
「元特攻隊員と連絡が取れたよ」
電話口で、姉が驚く様子がわかった。
「その人がおじいさんを知ってるんだ」
しかし姉の返事は意外だった。姉は「行きたくない」と言った。
「どうして」
姉は答えなかった。
「元特攻隊員の話を聞きたいと言ってただろう」
「聞きたいよ。でも、もう私、おじいさんの悲しい話を聞きたくないの」
姉は怒ったように言った。
「私は自分なりに特攻についても調べたわ、辛くて本が読めなかった」
「わかるよ」
「だから、おじいさんを知っている元特攻隊員の話の中に、おじいさんが特攻に行った時の話が出るかも知れないじゃない、そんな話とても聞けない。健太郎は平静に聞けるの」
「そりゃ、ぼくだって聞くのは辛いよ」ぼくは言った。「でもね、ぼくは今度のことは何かの引き合わせのように感じてるんだ、六十年もの間、誰にも知られることのなかった宮部久蔵という人間が、今こうしてぼくの前に姿を見せ始めているんだ」
電話の向うで、姉が息を呑むのがわかった。
「これって、もしかしたら奇跡のようなことじゃないかと思っている。戦争に行った人たちが歴史の舞台から消えようとしている。まさにこの時にこの調査を始めたことは、何か運命的な巡り合わせのような気がしてならないんだ。もし、あと五年遅かったら、宮部久蔵のことは永久に歴史の中に埋もれてしまったと思う。だから、ぼくはおじいさんを知っている人すべての話を聞かなくちゃいけないと思っている」
姉は少し間を置いて言った。「健太郎 ── あなた、変ったわね」
「でも聞くのが辛いという姉さんの気持もわかるし、その気持はぼくにもある。今回はぼくだけ行って来るよ」
姉は黙っていた。
「高山さんには返事したの?」
ぼくは運転しながら、助手席の姉に聞いた。
元海軍少尉、岡部昌男の家は千葉県の成田にあった。ぼくは母の車を借りた。
「まだだけど、オーケーするつもりよ」
姉は答えた。
今度の取材は、前日になって姉が「やっぱり行く」と言ってきたのだ。
ぼくは高速に入ってから言った。
「姉さん、本当は藤木さんのこと好きだったんだろう?」
姉は驚いたようにぼくを見た。
「今だから言うけど、ぼくは姉さんが藤木さんと一緒に泣いているところを偶然見たんだ」
姉は黙った。二人の間に長い沈黙があった。ぼくはエアコンを強にした。
しばらく沈黙が続いた後、姉は言った。
「笑わないで聞いてくれる? 私は藤木さんのことが好きだった。彼が司法試験に受かって、奥さんになるのが夢だったの。それだけに彼が司法試験をあきらめて、田舎に帰ると聞いた時はショックだった。私は就職が決まっていたし、帰らないで、と言った」
「藤木さんと付き合っていたの?」
姉は首を振った。
「手も握らなかった。告白もされなかったし、二人きりでデートしたこともない。だから恋人でも何でもなかったの」
「そうだったのか ──」
「あえて言うなら、あの時、私が泣いたことが愛の告白だったのかもね」
姉はそう言って少し悲しそうに笑った。
「でも、彼は帰っちゃった。一緒に来てくれとも、待ててくれ、とも言わずに」
藤木なら、絶対に言わないだろうなと思った。みすみす苦労することがわかっているところに、ついて来てくれなどと言う人ではない。
「後悔していない?」
「後悔?── どうしてよ。私は自分の選択が正しかったと思ってる。あの時、一緒に田舎に来てくれって言われなくてよかったと思っている。あの時は子供だったから、もしかしたら決まった就職もって行っていたかも知れない」
姉はそう言うと、声を上げて笑った。それからぼくに訊いた。
「藤木さんの工場、相当厳しいのを知ってる?」
ぼくはうなずいた。
「もし、藤木さんと結婚していたら、苦労していたよね」
姉はハンドバッグからタバコを取り出して、火をつけた。ぼくはちょっと驚いた。
「タバコ吸うようになったの?」
「お母さんの前では吸わないけどね」
姉はそう言って、窓を開けた。熱い風が入ってきた。
「昨日、藤木さんから結婚してくれないかって電話があったの」
一瞬、姉が何を言っているのかわからなかった。
「私、ある男性と結婚するかも知れないって、藤木さんに手紙を書いたの。手紙を書いたのは初めてよ。それから十日ほどして、突然、藤木さんから電話があったの」
「何言ってんだよ!」
ぼくは姉の方を向いて怒鳴った。姉はびっくりした顔をした。車の車間距離が詰まって、慌ててブレーキを踏んだ。
「姉さんは振られた復讐がしたいのいかよ」
「復讐なんて考えてないわ。ケジメをつけたかったのよ。それよりちゃんと前向いて運転してよ!」
「それで、何て答えたんだよ!」
「断わったに決まってるじゃない」
ぼくは追い越し車線に車を入れると、アクセルを踏み込んだ。姉は黙っていた。ぼくは藤木さんの心境を思うと、たまらない気持になった。
それから、二人とも高速を降りるまで、一言も口を利かなかった。
2024/11/22
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