元海軍少尉、岡部昌男は千葉県の県会議員を四期も務めた人だった。その前は長く県の教育委員会に勤めていた。最初その経歴を知った時、元特攻隊員が議員になっていることに驚いたが、よく考えれば別段おかしなことでも何でもなかった。当時は若者すべてが軍隊に行っていたし、戦後の日本を支えた人たちのほとんどが元兵士だったのだ。その中に元特攻隊員がいても何ら不思議ではない。
岡部の家は成田の閑静な住宅街にあった。こじんまりした小さな家で、県会議員を四期も務めた人の家には思えなかった。
「普通の家だね」
ぼくの感想に姉も同意した。
ドアの横の呼び出しボタンを押すと、すぐに玄関の戸が開き、小柄な老人が顔を見せた。
元特攻隊員はすっかり頭が禿げ上がった老人になっていた。にこにこと笑う愛想のいい人だった。元特攻隊員ということで、威圧的な人物を想像していたぼくはちょっと肩すかしを喰った。
「家内は公民館にお花を教えに行っています。私一人では何のおもいてなしも出来ませんが」
岡部はそう言って、和室に案内してくれた。
「年寄りの二人暮らしなものですから、若いお客さんに何を出してよいものやら」
そう言って、サイダーを出してくれた。
「おかまいなく」
とぼくは言った。
目の前にちょこんと座っている小さな老人が元特攻パイロットというイメージとまったく重ならなかった。もっとも特攻パイロットのイメージなど本当は何も持っていなかったのだ。
「宮部さんは素晴らしい教官でした」
岡部はいきなり言った。
「教官と言いますと?」
「練習航空隊の教官です。同じ教官でも士官は教官、下士官は教員と呼びました。軍隊というところはそういうとことにも、士官と下士官を区別したのですね」
「祖父が教官をしていたとは知りませんでした」
「宮部さんが筑波の航空隊に教官として来られたのは、昭和二十年の初めでした」
私は飛行科予備学生でした。予備学生というのは、一口に言えば大学出身の士官のことです。
海軍では、もともと少数の予備学生を採用していましたが、昭和十八年からは大量の予備学生を採りました。
その頃は今みたいに誰でも大学に行ける時代ではありません。百人に一人も大学に行けなかったのではないでしょうか。当時の大学生というのは大変なエリートだったのです。だから当初は軍もそうしたエリートを軍隊に入れることはしなかったわけですが、昭和十八年になると、戦局の悪化し、そんな悠長なことも言っていられない事態になってきました。十八年といえば、ガダルカナルの戦いに敗れ、山本五十六長官が戦死した年です。
それで、これまで徴兵を免除していた大学生たちや旧制高校生たちを学徒出陣で軍隊に入れることになったのです。理科系の学生を除くすべての大学生が徴兵の対象となりました。私たちも、いよいよ国民皆兵の時代に入ったと思いました。
私たち大学生の多くも自分たちが徴兵を猶予されていることには非常に心苦しいものを感じていました。同い年の若者たちが兵士となって戦い、日々亡くなっているのに、のんびり学問なんかしていていいのかという思いがあったのです。もちろん、中には兵役を逃れるために大学に籍を置いている者もいました。たとえば当時、「職業野球」と呼んでいたプロ野球選手の「中には、夜間大学に籍を置いて徴兵を逃れている者がいました。しかし、多くの大学生たちは自分の特権を喜んではいませんでした。
十八年の第一回の学徒出陣では十万人を超える学徒兵が生まれました。全国の大学が空っぽになったと言われました。十月に、明治神宮外苑競技場で出陣学徒壮行会は行なわれました。冷たい雨が降る中、五万人の女子学生に見送られ、二万五千の学徒兵は行進しました。
運命とは皮肉なものだと思います。特攻隊の多くは、この年の学徒兵の中から選ばれたのです。なぜなら、海軍も陸軍も、学徒兵から大量に飛行学生を採ったからです。
飛行機の操縦は車のように簡単なものではありません。操縦以前に覚えなくてはいけないものが数多くあります。ですから、戦前の操縦練習生たち、あるいは予科練の飛行練習生たちは大変な難関の試験をくぐり抜けて選ばれた優秀な少年たちだったのです。航空隊は、それだけ優秀な人材が必要とされたのです。その点、大学生たちは豊富な知識と高い知性があります。手っ取り早く飛行機乗りに仕立て上げるのに格好の素材だったのです。そして速成の特攻用パイロットとして作られていったのです。
特攻で亡くなった人たちは四千四百人以上おられます。その半分近くがこうした飛行予備学生出身のパイロットたちでした。
この年の学徒出陣の中から選ばれたのが予備学生十三期、後の海軍の特攻の主力となった人たちです。私は翌年の十四期の飛行科予備学生でした。この十四期からも多くの特攻隊員が選ばれました。
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