~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅵ』 ~ ~

 
== 『 永 遠 の 0』 ==
著 者:百田 尚樹
発 行 所:㈱ 講 談 社
 
 
 
 
 
桜 花 (三)
ところで最初の特攻隊はレイテにおける関大尉の敷島隊というのが一般に流布されていることですが、実は本当の特攻第一号は同じレイテの大和隊の久納好孚くのうこうふ中尉です。久納中尉は十一期の予備学生でした。
関大尉の敷島隊が突入したのは十月二十五日ですが、久納中尉の大和隊が突入したのは二十一日です。この日、大和隊も敷島隊も接敵出来ず、全機基地に引き返したのですが、久納中尉だけは帰還することなく、単機で敵を追い求め、ついに戻らなかったのです。
本当は久納中尉こそが特攻第一号ですが、その栄誉は彼に与えられませんでした。
戦果確認が出来なかったこともありますが、もう一つの大きな理由は、久納中尉が予備学生出身の士官だったからっす。海軍としては「特攻第一号」の栄誉はやはり海軍兵学校出身の士官にしたいということで、関大尉が第一号として発表されたのです。
このことを見ても、海軍がいかに兵学校の士官を重んじ、予備学生を軽んじていたかがわかるでしょう。
にもかかわらず十三、四期の予備学生を、特攻隊員として養成するため大量に搭乗員としたのです。
熟練搭乗員が特攻に行かされることはまれでした。十九年の比島方面では熟練搭乗員も何人か特攻を命じられていますが、翌十二年の沖縄戦になると、そうしたことはなくなりました。その頃は開戦当初からの熟練搭乗員がほとんど死に絶えていましたから、軍にとっては高い技量を持ったベテランは本当に貴重な存在だったのです。
熟練搭乗員は本土防衛の戦闘に従事したり、あるいは特攻隊の援護機として出撃したり、あるいは練習生の教員になったりという任務がほとんどでした。何度も言うように、特攻には、使い捨ての予備学生や予科練の少年飛行兵が選ばれました。

私が予備学生として第十四期の予科飛行学生となったのは、昭和十九年の五月です。敷島隊の関大尉の特攻は半年後ですが、多分その前から、海軍はもう特攻作戦を真剣に考えていたはずです。十三期と十四期の予備学生たちを特攻要員にすると決めていたと思います。もちろんそんなことは私たちは知るよしもありません。
私たちは空戦のやり方も爆撃のやり方も何も教えられませんでした。そんなものを教えてもまったくの無駄だったからでしょう。私たちはただ爆弾を抱いて、敵艦にぶつかるだけなのですから。
飛行訓練は過酷なものでした。二、三年はかかる訓練を一年足らずでやらなければならないのですから、教える方も教わる方も必死でした。とにかく軍としても一刻でも早く飛べるようにして、特攻で使えるようにしなくてはいけませんでしたから。
ただ、教員は下士官だったので、教え方は丁寧でした。私たち予備学生は准士官と下士官の中間だったので、階級的には教員よりも上ということになります。そして訓練期間を終えるとすぐに少尉になります。戦争の経験も何もないのに士官です。一般の兵隊は士官になるのに十年以上かかるのですから、考えてみれば随分不合理です。
また練習航空隊でも、教わる方が教える方より階級が上なので、双方やりにくいところがあったのもたしかです。教員も私たちには遠慮があったと思います。厳しく教えたいと思っても、階級の差がそうはさせないところがあったのでしょう。しかし仮にそうでなくても、私たちは特攻用の搭乗員として教育されていたのですから、結局はたいして違いはなかったのですが ──。
私たちは自分たちが特攻要員だとも知らずに、早く一人前の搭乗員となって、敵機を撃墜すると決意して訓練に励んでいたのですから、滑稽こっけいですね。
しかし十九年の十月に敷島隊のことを知り、その後も比島で神風特攻隊が次々に出撃していくというニュースを聞かされると、自分たちももしかしたら特攻に行かされるかも知れないと思うようになりました。

宮部さんが教官としてやって来たのは、私たちの教育がもうすぐ終了するという頃でした。たしか二十年の初めだったと思います。
第一印象ははっきり覚えています。全身に異様な空気を漂わせていました。筑波航空隊には戦地から帰った搭乗員が何人かいて、いずれも死線を越えたというすごみがありましたが、宮部さんもそうした空気を持っている男でした。
不思議なことに、より厳しい戦場から帰ってきた者ほど戦場のことは話しませんでした。むしろたいして実戦を積んでいないような搭乗員の方が戦地風を吹かす傾向にありました。戦場体験はほとんど語りませんでした。華々しい話や手柄話はまったく言わない人でした。
宮部教官の階級は少尉でしたが、いつも私たちには丁寧な言葉で話す人でした。数少ない海軍兵学校出身の教官はたいたい言葉も乱暴で、怒鳴ることも当り前でしたが、宮部教官は学生に一度も大きな声を上げたことはありません。もっとも少尉とは言っても宮部さんの場合「特務少尉」といって一段下の士官です。下士官上がりの士官は「特務士官」といって海兵出の士官よりも低く扱われたのです。一度、ある年輩の特務中尉に、海兵出身の若い少尉が怒鳴っているのを見たことがあります。それが軍隊というところです。
私たちの先輩たちもまた「予備士官」とか「スペア」と言われ、海兵出身の士官よりは一段低く見られていました。それだけに特務士官に対してはシンパシーがありました。しかしそういう私たちも下士官から見れば、特権階級に見えたことでしょうね。
2024/11/25
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