~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (下)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
模 索 (二)
「失業保険金給付総額
昭和二十余年     ──
二十五年     ──
二十六年     ──
二十七年     ──
二十八年  二五、四〇四
         ──
         ──
二十九年  三五、五二二
         ──
         ──
         ──
三十年   三〇、八三四
         ──
         ──
三十一年  三〇、八三四
         ──
         ──
三十二年  二七、四三五
三十三年  二八、四三一
         ──
         ──
三十四年  二八、四三八
         ──」

「失業保険の金額ですね」
吉村が見て言った。
もっとも、この紙片はいくいつかにちぎられた一部分らしい。
「この辺に、こんな統計に興味を持った人がいるんでしょうか?」
「さあ、労働者の役人か何かいるかも知れないね」
およそ、興味の薄い統計だった。
その紙片は宮田邦郎の倒れていた地点と、ほぼ十メートルぐらい離れて落ちていた。
「これは、いつからここにあったものでしょうか?」
吉村が言った。
「紙は薄い模造紙だね。あまり汚れていない。吉村君、雨はいつごろ降ったかね」
「そうですね、たしか四五日前に、降ったはずだと思いますが」
「この薄い紙片が落とされたのはそれ以後だ。雨に打たれた形跡がない。雨に打たれて汚れたとすると、もっと汚くなっているからね」
「宮田邦郎が死んだのは三日前ですね。そのころのもでしょうか?」
「さあ」
今西は考えていた。
「しかし、こんなものは宮田の死と何も関係がないね。まさか、宮田がこんなものを持っているとは思えないからな」
「しかし、念のために前衛劇団のほうに聞いてみたらどうでよう。芝居の小道具の一つか、あるいは、台詞の抜き書きかも知れませんよ」
吉村の言葉に今西は言った。
「そうだな。この紙が風に吹かれてここまで来たという考え方もある。君はそう考えているんだね」
「そうですね、その可能性も、勘定に入れていいでしょう」
「宮田以外の人間が持っていたという推定だろう?」
「そうです」
と、吉村は答えた。
「宮田の知合いで、こういう統計を書いた人間、つまり労働関係に興味を持っていた人間がいるかも知れないという推測です」
「すると、その人間は、ここまで宮田と一緒だったという意味かね?」
「そうかも知れません。また宮田がその紙をもらって、ポケットか何かに持っていて、ここに倒れた時に地面に落ちた。あとで風が吹いてここまで転がった、という推定もあるわけです」
今西は笑った。
「それは無関係だろう。宮田が何も興味のない、こんなものをもらうわけがmないからね。しかし、別な人間が宮田とここまで一緒だったということは、なかなか興味があるよ」
今西は、その紙をもう一度見た。
「これは何だろうね?」
彼は、紙の上に指を当てた。
「そら、この統計表は昭和二十四年からになってるだろう。ところが、二十四、二十五、二十六、二十七は棒のようなものが引いてあって、数字はブランクになっている」
「それは、その数字が不必要だったか、あるいはよくわからなかったか、どっちかでしょうね」
「それはいいよ。ところが、見たまえ。この二十八年と二十九年の間には、棒が二本引いてある。また、二十九年と三十年の間には、棒が三本もはいっている。上にはもちろん、前に書いたような年度は入っていない。このブランクは何を意味するんだろう?」
「そうですね」
吉村も首をねじむけて見入っていた。
「わかりませんね。もしかすると、この間に何か別な数字が入るのかも知れません。たとえば、被保険者数とか、受給者の人員数とか、そういうものを入れるつもりじゃなかったんでしょうか?」
「それだと、上にその項目があってもいいはずだが、それもない。たぶん、これは書いた人間の何かの心覚えかも知れないね」
「文字はまずいですね」
「うむ、まずい。まるで中学生が書いたようだ。しかし、近ごろの大学卒業者は、字がおそろしく下手くそだからな」
「どうします、この紙片は?」
「ま、何かの参考になるかも知れない。ぼくがしまっておくよ」
今西は、その紙片を手帳の間にはさんで、ポケットに入れた。そのほか何も現場で新しい発見はなかった。もっとも、いま、手帳にはさんだ紙片も、宮田邦郎の死亡とは無関係かも知れないのである。失業者の統計など、およそ俳優とは縁がないわけだ。
「わざわざ、こんな所に引っ張り出してわるかったね」
今西は吉村に言った。
「いいえ、どうしまして。ぼくも一度は見ておいた方がいいのです。今西さんについて来てかえってよかったですよ」
二人は、バスの停留所の方へ歩き出した。
2025/05/07
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