~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (下)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
模 索 (三)
今西は警視庁に戻って、しばらくぼんやりしていた。さいわい今日は事件のための捜査活動はなく、同じ部屋の同僚たちは、将棋をさしたり、碁を囲んだりして、のんびりしていた。
今西は、ふいと、あることを思いついて広報課に行った。
「おや、また、何かむいずかしい調査かね?」
今西の顔を見て広報課長は聞いた。
「ミュージック・コンクレートについて、知りたいのです」
今西は真面目な顔をして言った。
「何だい、それは?」
課長は、あきれたように今西の顔を見た。
「何でも、音楽らしいです」
「音楽と、君とは、およそ似合わない取り合わせだね」
「別に、ぼくが音楽をやるわけではありません。何か、手ごろなものはありませんか?」
「やれやれ、この間は方言を聞きに来たが、今日はまた音楽かい」
課長は、それでも自分で立って事典の一つを調べて引き出してくれた。
「これを見たら何かあるだろう」
今西は厚いその本を開いた。
彼は百科事典の細かい活字を目で追った。
「ミュージック・コンクレート
具体音楽と訳す。音楽たると否とを問わず、存在する限りのあらゆる音響を素材とし、それらにさまざまな(電気的・機械的)加工を施すなどして、テープ・モンタージュの方法により構成した音楽。その聴取は電子音楽同様全く演奏家なしに、スピーカーを通して行なわれる。1948年にフランスの技師ピエール・シェフェルにより創造され、音楽界に強いショックを与え、一部の前衛的作曲家たちの支持と協力を得てしだいに世界に広まった。その名称は、素材音としておもに具体的音響(自然音・機械の音・人声等々)を用いることから由来しているが『具体音楽』という名称はたいへん誤解を招きやすい。すなわち、これらの素材音はすべて音響本来の意味(発音の原因・目的)とは無関係に、個々の独立した音そのもの、すなわち『音響オブジェ』として作曲家にとらえられ、用いられるので『具体』なる語は『具体的内容』とか『描写』などという事柄を意味しているのではないことに注意しなければならない。この『音響オブジェ』なる思想は従来の音楽には全くなかったもので、シュルレアリズムから来た。それゆえ具体音楽は従来のいかなる音楽とも断絶したところから発生したといえよう。しかし、しいて、その起源を音楽史のうちに求めるなら、1920年台におけるエドガー・ヴァレーズの前衛的諸作品(イオン化など)のいわゆる『騒音芸術』などがあげられよう。未来派から具体音楽に至る一連の『騒音音楽』は、従来の音楽のあり方に本質的に否定的であり、この否定から出発して、従来の音楽では見向きもされなかった新しい音素材(騒音類)の持つ強力で新鮮なエネルギーと表現力をもって、音楽の世界にまったく新しい一分野を開拓確立せんとする動きを示している。・・・・(諸井誠)
今西は百科事典を閉じた。
何だかむずかしいことばかり書いてあって、ちっとも頭に残らない。音楽を知らないから無理はないが、それにしても、ミュージック・コンクレートとは何ぞやという解答は、この解説からは得られなかった。
よほど、むずかしい音楽らしいことはわかる。これまでの音楽とはちょっと型変わりということもわかる。しかし、具体的なことは何一つ頭に入らなかった。
「どうもありがとうございました」
今西は本を返した。
「わかったかね?」
課長は振り向いた。
「いや、よくわかりません。ぼくにはちょっとむずかしいです」
今西は苦笑した。
「そうだろう。音楽と君とは、およそ縁がないからね。どうして、また、そんなことに興味を持ったのかね?」
「はあ、ちょっと思いついたことがありましたので」
今西は適当にごまかして広報課を出た。
2025/05/07
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