~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (下)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
模 索 (六)
家に帰ってみると、川口の妹が遊びに来ていた。妹は妻と笑いあっていた。
「兄さん、今晩は」
今西は洋服を着物に着替えた。
「今日は何だい?」
今西は妹の前に坐って茶を飲んだ。
「日劇の招待券をもらいましたので、その帰りですよ」
「道理で、今日はお前の顔色がいいと思った。夫婦喧嘩したのなら、すぐわかる」
「あら、いやだ。わたしだって、そうはしませんよ」
妹は笑いながら今西の顔を見上げた。
「兄さん、疲れたような顔をしているわ」
「そうか」
「お仕事がお忙しいの?」
「まあね」
「でも、今日は早かったじゃないの?」
妻が横から言った。
「年だな、疲れたよ」
「気をつけないといけませんわ」
妹はそう言っていたが、日劇を見たあとなのでひどく快活だった。
今西は気が重かった。その屈託が顔に現れる。妻と妹が笑いながら話している中に入っていけなかった。
彼は次の六畳の座敷に入った。粗末な机が置いてある。簡単な本箱には警察関係の図書があるだけだった。小説などあまり読まない男である。
今西は引出しから手帳を出した。これには、心覚えのことが書いてある。彼はそれを繰って、いつかの、亀嵩に行ったところを読み返してみた。
この気持になったのは、宮田邦郎が東北の方に妙な演技をやりに行ったことがわかったからだ。吉村も言うとおり、それが犯人の演出だとしたら、犯人は東北の人間ではない。
ここで、ふたたび今西の顔に島根県の山村がよみがえってくる。東北弁に似た言葉と「カメダ」の名前。それは、どうしてもこの土地に求めねばならなかった。被害者もそこで長いこと巡査をしていた男なのだ。
今西は手帳に目を落とした。亀嵩で聞いた被害者三木謙一の巡査時代の話である。
三木謙一は、だれからも愛された。仏さまのような人のいい男である。親切だし、実子がなかったせいか、世話好きでもあった。
妻は、三木謙一が三成署に転勤したとき死んでいる。現在、三木謙一の悪口はだれも言っていない。聞けば聞くほど、彼を賞賛する声ばかりだった。
たとえば、三木謙一は働く婦人のために託児所を作った。そのため寄付を募り、友人や篤志家の間を駆けずりまわった。その託児所を寺にこしらえて、皆から便利がられた。
村民が生活苦のために、病人が医者にもかかれず、薬代も払えないでいると、三木謙一は医者に頼んで治療代を延ばしてもらい、薬代は自分の身銭を切った。わずかな給料だったが、その中での支払いである。
病弱な乞食が迷い込むと、これを保護することもあった。
この地方は炭を焼くものが多い。また山に入って木を伐採するため、一冬山中で暮らす者もある。あるとき樵夫が山奥で急病にかかって倒れたとき、三木謙一はその病人を背負い、難義な山坂を越えて医者のところに運んだこともある。
それだけではない。村に紛争が起こると、そこへ行って和解を計り、家庭に悩みがあるとき、その家に行って相談にのったりした。
このようなことを、いま改めてメモで読んでみると、今西栄太郎は、宮沢賢治の詩の一節を思い出すのだ。
「東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負イ
南ニ死ニソウナ人アレバ
行ッテコワガラナクテモイイト言イ
北ニケンカヤシショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロト言イ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハ・・・・」
三木謙一は、この詩にあるとおりの男だったに違いない。彼こそは、山村の駐在巡査として、どの都会の警察官よりも立派なことしたのだ。
同じ警察の人間として、今西栄太郎はこの上ない敬意を、三木謙一に抱かないわけにはゆかなかった。
このような立派な人を殺した犯人は、いったい、どのような人間であろう。
今西栄太郎は、このメモから、ただ三木謙一の善行を発見しただけだった。
今西は被害者の調査に現地に行ったのだが、そこで聞いて帰ったものは、犯罪とは少しも縁のない被害者の履歴ばかりだった。この土地では三木謙一殺害に関する犯罪の因子の発見はできなかった。
つまり、三木謙一には暗い面が少しもないのだ。彼が怨恨を受けるような理由は、塵ほどにも見い出されない。
2025/05/09
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