~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (下)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
模 索 (七)
今西栄太郎は手帳をそこに置いて、六畳の畳の上にひっくり返った。後頭部に両腕を組んで手枕にした。天井は煤けている。隣の部屋からは、女房と妹の笑い声がまだつづいている。近くの角からはバスの通過する響きが伝わって来た。
畳に寝ていた今西は、思い出したように起きあがって隣の部屋へ行った。
妻と妹は、まだおしゃべりをつづけている。
「兄さん、ここにすわって、いっしょに話したらどう?」
妹はすすめた。
「いや、おれはちょと用がある」
今西は、ハンガーに吊り下がった洋服のポケットから小さな紙を取り出した。まだ、洋服ダンスを買えないので、洋服はハンガーの上からビニールのカバーを掛ている始末だ。
彼は元の部屋にかえった。
紙は宮田邦郎が死んだ地点、世田谷の畑の中で拾ったものだ。
失業保険金の一覧表である。
これが、宮田邦郎の死と関係があるかどうかはまだわからない。偶然に落ちていたのかも知れない。
何のへんてつもない数字だ。これで見ると、我が国の失業保険金額は、しだいに増加の一途をたどっている。それだけ、世の中が不景気になっている。昭和二十九年といえば、朝鮮戦争が終わった翌年だ。特需ブームが終わって中小工場が、ばたばたと閉鎖したころだ。
失業者が多くなっているのはそのためであろう。数字がそれを示している。
こういう意味から眺めていると、数字もなかなか興味はあるが、それは事件とは関係のないことだ。
これを見つけた吉村は、この表を書いた人間が、宮田邦郎と一緒だったのではないかと推定した。それも一理ある考え方だ。この紙は雨に打たれた形跡がない。宮田邦郎と関連していると考えるのは、たいそうな見当違いでもない。
しかし、、今西は、宮田が立ち寄った先は、今西に打ち明けるはずの重大な話しに関連していると考えている。こんな統計を書くような労働関係や、社会学に興味を持つ人間のところではあるまい。
ともかく、この紙は一応保管しておこう。役に立つかたたないかは別問題だ。彼は紙を畳んで、それを三木謙一のことを目もした手帳の間にはさんだ。
妻が晩飯の用意が出来たといって呼びに来た。子供は早寝をしたので、今西は妹と三人で食事をした。
「いただいてすぐで申し訳ありませんが、わたし、遅くなるからもうこれで帰ります。日劇見物で朝から出ているんですから」
妹は、そわそわしていた。
「じゃあ、そこいらまで散歩がてら行ってやるよ」
「いいえ、結構だわ。いつもですから」
「いや、おれもちょっと歩いてみたい」
実際、頭の中がくさくさしていた。宵の街を歩いて少し気を晴らしたかった。
妻も一緒に行くというので、また三人で近くの駅まで行くことにした。
途中のアパートの前まで来て、妻は妹に、最近このアパートで若い女の自殺者があったことを話した。
「困るわね。そんなひとが出ると」
妹は、アパートの経営者の立場から言った。
「家にも若い女の人がいるけど、大丈夫かしら?」
妹は、アパートの自殺話を聞いて、そんなことを呟いた。
「ああ、この間、越して来たという人ね?」
妻が言った。
「そうよ、義姉さん」
「バーの女給さんだと言ったでしょう?」
「そうなの。毎晩、遅くなって帰って来るわ。でも、わりとちゃんとしてるの」
「お客さんに送られて来るということはないの?」
「さあ、それはわからないけれど。とにかく、家の玄関を入って来る時は、いつも一人だわ。酒に酔っぱらっていても、気を締めているのか、ちゃんとしているわ」
「感心なのね」
「ええ、でも、あんな商売でしょう。変な騒動が起こると困るわ」
「そういう人なら大丈夫でしょう」
「そうは思っているんだけど、今のような話を聞くと心配だわ」
明るい街灯の下を通った。
「でもね、義姉さん。その女給さん、ちょっと感心なのよ」
と、妹は言った。
「とても、むずかしい本を読んでるの」
「何よ、それ?」
「何だか、理屈っぽい本だわ。この間も、わたしがちょいと用事があって入ったら、その時は新聞を切り抜いていたの。覗いてみると、音楽の評論だったわ」
「音楽に興味があるのかしら?」
「いいえ、音楽には全然興味はないんだって」
「へえ、じゃあ、どうしてそんなものを切り抜くのかしら?」
「何でも、書いている批評がおもしろいんですって。でも、読ませてもらったら、チンプンカンプンでわたしにはわからなかったわ」
その声が今西の耳に入った。
「おい」
彼は妹を呼んだ。
「その批評というのは、ミュージック・コンクレートのことではなないか?」
「ああ、そうそう、そうだったわ。兄さん、よく知ってるのね?」
妹は、びっくりしていた。
「うん、ちょっとね。で、その娘は音楽に興味がないといいながら、そんなものを読んでいたのか?」
「ええ、書いた人がとても頭のいい、りっぱな人なんですった」
「それは、関川重雄という人だろう?」
「おどろいたわ。兄さん、何もかもよくわかっているのね」
今西は黙った。今の若い連中は関川重雄をそれほど崇拝しているのだろうか。
「その、むずかしい本って、どんな本だい?」
「何だか、わたしにはよくわからないわ。でも、その関川さんという人の本が、二三冊棚にあったわ」
「その女給さんは、いつもそういうかたい本を読んでいるのか?」
「そうでもないわ。大衆的な雑誌も読んでいるわ」
「名前は?」
「三浦恵美子よ」
「おい」
と、今西は言った。
「今度、おまえの家に遊びに行くよ。そして、その女給さんをさりげなくおれに会わせてくれよ」
2025/05/10
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