~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (下)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
恵 美 子 (二)
関川の声がちょっと途切れた。
「どうして、その人が君にそんな話をしたんだろう?」
「ミュージック・コンクレートの話から出たんですわ。あなたが和賀さんの批評なすったでしょう。それで、わたしが関川先生を存じあげていると、つい、言ったものだから、それから話がはじまったんです」
「知っていると行ったのか?」
「心配なさらないで」
と、彼女は言った。
「あなたのkとは、お店にお見えになるお客さまだと、言っておきましたから」
「まさか」
と、関川は真剣な目つきだった。
「ぼくと君との間を察してはいないだろうな?」
「いいえ」
彼女は男を安心させるように微笑した。
「そこまでわかるもんですか」
「ぼくのことを話すのは、どんな場合でもやめてくれ」
関川は機嫌の悪い声を出した。
「ええ、それは気をつけているんですけれど・・・」
彼女はすまなさそうな顔をした。
「でも、あなたのことが話に出ると、つい嬉しくなっちゃうんです。これから気をつけますわ」
「いったい、その管理人のおなさんの兄貴というのは、どんな職業の一かい?」
ジューク・ボックスからは忍び泣くような女の唄声が流れていた。
「わたしも、おばさんに、そのことを聞いたんですけれど」
「恵美子は、アパートのおばさんの兄のことで関川に答えた。
「おばさんは、はっきり言ってくれなかったんです。でも、とても親切そうな、いいおじさんっでしたわ」
「で、今でも、その人の職業は、よくわからないのかい?」
関川は、先をたずねた。
「いいえ、わかりましたわ。おばさんからではなく、アパートの人から、それとなく、聞き出したんです。そしてら、ちょと意外でしたわ」
「何だったのだ?」
「警視庁の刑事さんですった」
「刑事?」
「関川は、急に複雑な顔になった。
「そうなんですって。でも、そんなふうにはちっとも見えませんでしたわ。とても人当たりのいい、話し好きな、いい方でしたわ。今ごろの警察の人は、昔と違うんですってね」
恵美子はつづけた。
「お店にも、ときどき、警察の人が来ますけど、とてもやさしいわ」
これには関川の返事はなかった。彼は、煙草を取り出し、火をつけて、考えるように黙っていた。
店には、客が入れかわっている。
待ち合わせの相手が来ると、連れだって出ていったり、そのあと、二三人連れで入って来りする。十二時を過ぎた喫茶店は、宵のそれとは客種が全く違っている。
客のどの顔にも疲れがあった。話し声も小さかった。ジューク・ボックスのレコードが、小さく、細く、うつろに鳴っている。
「出よう」
と、先に言い出したのは関川だった。伝票も自分の手でつかんだ。
「ええ」
美恵子は、まだ残っている紅茶を見た。
「もう少し、ここにいません?」
「話しなら、よそに行って聞こう」
「そう」
柔順だった。
「君が先に出て、タクシーを止めたまえ」
美佐子はうなずいて、こっそり席を立ち、店を出て行った。
関川は、二分遅れて立ちあがった。
ほかのボックスにいる客に顔を見られないようにうつむき、レジへ歩いた。
2025/05/16
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