~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (下)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
恵 美 子 (三)
外へ出ると、恵美子がタクシーを止めて待っていた。
関川は先に乗った。
二人は、車の走る方向を見つめて、しばらく黙っていた。恵美子の手がこそっと伸びて関川の指を握ったが、彼からは強い反応はなかった。
「ねえ、あなたのことを言ったのはまずかったかしら? もし、それでお気にさわってるんでしたら、ごめんなさい」
彼女は、男の暗い横顔をのぞいてあやまった。
「君」
と、しばらくして関川がぽつんと言った。
「今のアパートを引越すんだな」
関川の言葉を、恵美子は解しかねたように聞き返した。
「何とおっしゃったの?」
「そのアパートを引越すんだ」
「どうして?」
恵美子は目をまるくしていた。
「またですか? たったこの間、移ったばかりじゃありませんか? まだ、ふた月ですわ」
彼女は憂鬱そうな声になった。
「わたしが、おしゃべりしたことがいけなかったのかしら? それで、他所に移るんですか?」
関川は返事を与えなかった。その代わり、まずそうに煙草を吸っていた。
自動車は赤坂の通りに出て、灯の乏しい深夜近い街を走っていた。
「その刑事は」
と、関川はしばらくして言った。
「今まで、たびたび、アパートに来ていたかい?」
「わたしが越して来てからは、はじめてだったようです」
「君と話したときは、君の方で、その男に話しかけたのか?」
「いいえ、そうじゃありません。お茶が入ったからといって、おばさんが呼びに来たんです。それで行ってみると、その兄さんという人が坐っていました。わたしたち、それからお茶をいただきながら、そんな話しになったんです」
「すると、その刑事という男が、君を呼びにやらせたんだな」
この言葉を恵美子は意外ととったらしい。
「まさか、そんなことはないと思うわ。ただの偶然ですわ。そこまで考えるのはどうかしら?」
「まあ、どっちでもいい」
関川は打ちきるように言った。
「とにかく、そんなアパートは、早く越してもらいたいな。ぼくが別なところを見つけるよ」
恵美子は男の考えがわかっていた。
以前のアパートは、学生に顔を見られたという理由で関川が移転を主張したのだ。
今度も、アパートのおばさんの実兄が刑事をしていて、その人の口から関川の名前が話題に出たのを、彼は気にしているのだ。
しじゅう、自分との間を他人に知られないように、関川は極度に警戒している。もともと神経質な正確だったが、このことになると、彼は極端なくらいだった。
「あなたがお気に入らなけらば、いまのアパートを出ますわ」
と、女は折れて言った。
恵美子は、男の言葉どうりにいつも従う自分を、ふと哀れに感じたらしい。男の態度は、彼女がこれから言い出したい目的に暗い翳をを投げていた。
関川は煙草を車の灰皿にこすりつけていた。
「夜はもう寒いくらいね」
恵美子は本心にないことを言った。
男が不機嫌な様子でいると、つい、それを直してもらいたくなる。特に、今夜は機嫌よくしてもらわねばならないのいだ。
関川は、まだ黙っている。
赤坂のネオンの灯が見えて来た。
車は赤坂見附のほうに向かっていた。
右側に新しい大きなホテルがある。
「あら、和賀さんじゃありません?」
このホテルの隣にナイトクラブがあった。表だけ明るい。
高級車がそこに集まっていた。時刻なのでホールから出た客が帰るところだった。
外人客が多い。西部劇まがいの赤い服を着たドアマンが、懐中電灯を振りながら車を呼んでいた。
その客の中に和賀英良の姿があったのだ。
「ほう」
関川ものぞいて言った。
きれいな方とご一緒ね。あの方なの、フィアンセというのは?」
「そうだ、田所佐知子だ」
二人の見ている焦点の中に、和賀と佐知子とは車を待って佇んでいる。それがこちらの車の速度で急激に後ろに流れた。
「幸福そうね」
恵美子が溜息をもらした。
「何がだい?」
関川は鼻の先に冷笑を浮かべていた。
「だって、みうすぐご結婚でしょう。その前に、あんなご交際をエンジョイしていらっしゃるんですもの」
これは、恵美子が自分の気持に比べて洩らした言葉だった。
「わかるもんか」
関川は言った。
「あら、どうして? だって、あんなにおしあわせそうなんですもの」
「現在はね。しかし、たれにも、明日のことはわからない」
「そんな言い方をなさるもんじゃありませんわ。お友だちですもの、喜んでおあげになったら?」
「むろん、喜んでやりたい。しかしね、君のように、ただ形式的なことだけでは、実際はすまないんだよ。友だちだから、よけいに形式的なことを言いたくないな」
「何かありましたの?」
恵美子は関川の横顔を心配そうに見た。
「なにもない」
関川は突き放したように答えた。
「なにもないがね。しかし、和賀はあれで相当、野心家だから、本当に彼女を愛しているかどうかわからない。彼の狙いは、やはり、田所重喜であ、それをバックにした自分の栄光の道だ。そんなものが、女にとって幸福と思うかい?」
「そのなかで愛情が生まれれば、それでいいじゃありません?」
「そうかな」
関川は、その言葉が気に入らないふうだった。
「そんな愛情のあり方に、破綻が来なければしあわせだがね」
「でも、羨ましいわ。もし、そうだとしても、今のお二人を見ると、あんなふうに堂々とどこへでもお出掛けになるんですもの。わたしたちは、いつも人目を会っているんですもの」
関川は返事をしないで、青山の暗い通りの流れを窓から見物していた。
2025/05/18
Next