~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (下)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
恵 美 子 (四)
六本木の交差点を渡ると、このあたりは特殊なレストランが多い。それも、夜中の三時ごろまで店を開けているのだった。
この界隈が夜更けの特別な表情をみせてきたのは、それほど以前ではない。付近には、ロシア料理、イタリア料理、オーストリア料理、ハンガリー料理などの風変りな店が散在している。経営者も日本人でないところから、ジャーナリストは東京疎開とあだ名している。
関川重雄は、道路に一ヵ所だけ明るい灯を投げている、あるレストランの前に車をちめた。
赤い絨毯を敷いた階段を上り切ると、広い客席がある。
「いらっしゃいませ」
給仕が奥に案内した。
客席は二つの部屋に分かれている。奥まったところに若い男女の組が二三みえた。
関川は、ハイボールを注文した。
「君は?」
「お酒は、もうたくさん」
恵美子は答えた。
「オレンジ・ジュースをいらだくわ」
ボーイは去った。
「何だい、話しというのは?」
関川は恵美子をのぞいた。
ほかのアベック組も、低い声で話している。時間だから、レコードも鳴っていないし、前の電車通りからの音も絶えている。
深夜の喫茶店は、やはり、それだけの雰囲気をもっていた。
恵美子は関川に言われても、急にはあとの言葉が出なかった。顔をうつむけ、もぞもじしていた。
「昼間、電話をくれたくらいだから、よほど、大事な話しだと思って、こうしてわざわざ来たのだ。早く、話してほしいね」
「すみません」
詫びたのは、電話のことだった。電話を掛けては困る、というのが彼女に言う関川の口癖だったのだ。
それでも、恵美子はあとを黙っていた。運ばれたジュースにだけは口をつけて、熱心に吸いあげている。
「酒を飲みすぎたのかい?」
「関川は、女の様子を見て言った。
「いいえ」
恵美子は小さく顔を振った。
「ばかに喉が渇いてるみたいだね?」
「ええ」
「腹は減っていないかい?」
「いいえ」
関川がハイボールを飲んでいると、ボーイがしまみ物を運んで来た。燻製鮭の切り身だった。
恵美子は、その皿をじっと見ている。
「よかったら食べろよ」
関川は彼女の視線に気づいて、皿を差し出した。
「ありがとう。でも、これだけいただくわ」
皿の横についているレノンの切ったのを、彼女は爪楊枝で刺した。そして、それを口に入れると、いかにもおいしそうに食べた。
「そんなすっぱいものが、君はおいしいのかい?」
関川は彼女の顔を見まもった。
が、この時、関川は何かに気づいたように、彼自身が表情を動揺させたのである。
2025/05/18
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