関川重雄は、恵美子の顔を睨むように見た。急に椅子をずらせて、彼女の傍に自分の体を寄せた。
「君」
と、耳もとで小さく言った。
「まさか?・・・」
恵美子はみり間に額まで赤くなった。それまで動いていた手も、急に停止した。じっとしているのだが、体を内側から力をこめたように難くしたいた。
「そうか」
関川は、また真剣な目で彼女を見つめている。
恵美子は、言葉を出さずにyなずいた。
関川もあとを言わなかった。彼はにわかに目をそらしてコップを握った。
それに唇をつけても、視線は別なところに止まって動かなかった。この沈黙はしばらく続いた。
「ほんとうか、間違いないね?」
と言ったのは、かなり経ってからだった。
「ええ」
恵美子は細い声を絞るように出した。
「どのくらいだ?」
その答えもすぐにはなかったが、勇気を出したように恵美子は答えた。
「四月近くになります」
関川は、握ったコップがわれるくらいに指に力を入れた。
「バカな」
と、彼は恵美子に目を返して、おさえた声になった。
「どうして、今までそれを黙っていたのだ?」
瞳が、うつむいている女の前髪のあたりで強く当たっていた。
「でも、それを言うと、また前のようなことになりそうな気がしたんです」
唇を噛んでいるような声だった。
関川はまた、コップを取って自分の唇に当てている。
「当りまえだ」
と、彼は一口飲んだあとで言った。
「当然な処置だよ」
「いいえ」
女は不意に顔を上げた。これまでに見せなかった強い眼差しだった。
「前には、あなたの言う通りになりましたが、今では後悔しているんです」
「後悔?」
「ええ、わたしの言うことをあなたは聞いてくださらなかったのです。どんなにくやしかったか知れませんわ・・・。でも、今度は、今度は、わたしの考えた通りにしたいんです」
「だめだ」
男は言った。
「何を言うのだ。常識をもっているのか?」
「・・・・・」
「前のときだって、ぼくの言う通りにしたから何事もなく来ているのだ。君のわがままに従っていてみろ。ぼくたちは、かえって悲劇的になっている」
関川はふとい息を吐いた。
「一時の感傷や興奮で決めてはいけない。もっと、君、割り切るんだ。第一、生まれてくる子供のためを思ってみろ、その子自身がどんなに不幸になるか・・・・」
「いいえ」
と、女は激しく抵抗した。
「わたし、今度だけは、自分のわがままを通させていただきますわ」
その細い声に懸命なものがあったので、関川はあとの言葉を休んだ。
「お願いです。ほんとに今度だけは、わたしの願いを聞いて下さい」
男の硬い表情に愬えた。
「もう二度目ですもの。最初はあなたの言う通りにしました。でも、それが間違っていたことがわかったんです。どんなにしても、わたし、責任を持ちますわ」
「責任?」
関川は、恵美子を不快そうに眺めた。
「どう言ってるんだ?」
「わたし、自分ひとりででも育てますわ」
「わからないことを言うね」
関川は、うとましそうな声を出した。
「そんな一時的な感傷で、いつまでもいけると思うか。かえって、それが君の不幸になるのだ」
「いいえ、かまいません。しあわせでなくてもいいわ。あなたの愛情を自分でしっかりと握って、育てるだけでも幸福なんです」
関川は手がつけられないといった顔で横を向いた。それから残っているコップの酒を一気に飲んだ。氷が触れあって鳴った。
女はかなしそうに顔をうつむけている。
「とにかく」
と、関川は抑えつけるように言った。
「そううことには、ぼくは絶対に賛成できない。ぼくの言う通りになってほしいな」
「・・・・」
「君は、いま自分の感情だけでいっぱいだ。先がどうなるか考えてもいない。もし君の言う通りにしてみろ。君はきっと後悔するよ」
「いいえ。決して」
と、女は強い目をした。
「そんなことはありません。わたし、自分ですることは自分で決心してやるつもりdす」
「自分だけの勝手で言ってはいけない」
関川の声はなだめるような調子に変わった。
「なあ、恵美子、君のそういおう気持はよくわかる。だが、愛情だけでは何とも解決できないのだ。自分の気持でやったことが、かえって思わぬ逆の結果になることが多い」
「あなたは」
と、女は悲しそうに言った。
「わたしに愛情を持っていらっしゃるのですか?」
「わかってるじゃないか?」
「だったら・・・だったら、そんなことはおっしゃれないはずですわ」
彼女は肩で呼吸をしていた。顔色も今度は蒼白くなっていた。
「わたしの言うことに賛成してくださるはずですわ」
低かったが女の声はふるえていた。瞳にも涙が浮んでいた。
「恵美子」
関川は、その肩を急にやさしく叩いた。
「出よう、出て、このことはゆっくりと二人で考えながら話し合おう」
美恵子はハンカチで目をおさえていた。
|