~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (下)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
恵 美 子 (六)
夜中の十二時を過ぎたこの界隈は、人通りも絶えて静寂の底にある。
昼間でも静かな通りだった。両側には大きな家があって、長い塀が伸びている。道は急な坂になっていて、石畳があった。外灯の光が、石の刻みを模様めいた影で描いている。
関川重雄は、オーバーのポケットに両手を突っ込んでいた。恵美子が彼の横にぴったりと寄り添い、手を男の腕に掛けていた。二つの影が坂道をゆっくりとおりていく。
時おり、タクシーのヘッドライトが、光を二人の姿に当てて過ぎた。
「どうしても、君は諦められないと言うんだね」
先ほどからの話しの続きだった。男の不機嫌な表情も前のままである。
恵美子は男の肩に頬をすり寄せるようにしていた。
「すみません」
あやまったが、その声にしんの強さが感じられた。
「自分で決めた気持を、今度は、変えたくありませんの」
恵美子は自分の言葉が男に不機嫌を与えていることを承知の上で、主張を繰り返した。
「決して、あなたにはご迷惑をかけませんわ」
恋人の不興をおそれて詫びるような動作だったし、言葉も哀願的だった。
「迷惑?」
関川は前方を見つめて歩いている。
「ぼくの迷惑だけを言ってるんじゃない。これは、君のためも考えているのだ」
坂道は、いったん下におりて、ふたたび上りになる。このあたりは外国の大公使館などがあったりして、黒い森がかたまっていた。
「どうしてもだめか?」
関川が最後に確かめるように聞いたのは、女の決心が堅いと知ったからだった。
恵美子は黙っている。
この沈黙は、彼女に翻意のないことを、男に伝えていた。四ヶ月になって、女がはじめて打ち明けたのも、そのためだった。
「そうか・・・」
関川は暗い中で息を吐いた。
「すみません」
彼女は声をふるわせていた。
「わたし、どんなことをしてでも、自分の手でまもりとおします。あなたのお名前を出すようなことはありません」
「仕方がないだろうね」
関川はぽつんと言った。
「え?」
女は驚いたように顔を上げた。
「仕方がないと言っている」
「と、おっしゃいますと?」
「君の意思に従うほかはないだろうな」
関川は、自分の考えを追うように言っていた。
「それじゃ、わたしのわがままを許してくださるんですか・」
彼女は息をはずませたが、まだ喜びをおさえていた。
「敗けた」
と、彼は吐いた。
「君のがんこには参ったよ」
はじめて、恵美子は関川の腕を力いっぱいに絞めつけた。
今までしおれきっていた恵美子が、急にいきいきとなったのだ。
「嬉しい」
彼女は、関川の腕をつかんで揺さぶるように振った。
「嬉しいわ。とっても!」
体ごと彼に激しくとりついてきた。それから、顔を男の胸にこすりつけた。・関川が歩けなくなったくらい彼女はもつれた。
「なんだ、泣いているのか?」
関川は彼女の帯に手を当てて抱いていた。言葉つきも今までと違っていた。
実際、彼女はすすり泣いていた。頭も、頬も、肩も、彼女の感動で震えている。
襟から抜けた白い頸筋からは、甘い香りがした。
「すまなかったな」
関川はやさしく言った。
「君がそれほどの決心なら、もう、ぼくは何も言わないよ。出来る限り君の言う通りに強力する」
「本当?」
女は、涙声で言った。
「本当だとも、ぼくの言い方は少し君に残酷だったかも知れないね」
「いいえ」
彼女は首をはげしく振った。
「あなたのおっしゃることは、わたしもよくわかるんです。それが当然と思いますわ。でも、わたし、今度だけは自分の生命を守りたかったんです。自分の、というよりも、あなたをうけつぐ生命を守りたかったのです・・・・」
恵美子は感動であとの声が出ず、唇を小さく痙攣させていた。
ふいに、関川は女の肩を引き寄せ、彼女の唇に自分を押しつけた。女の頬に流れている涙が冷たく触れた。
横の塀の上に茂った木立ちが高く差し出ていた。その闇の下に二人は長い間抱き合ったまま立った。
突然、自動車のヘッドライトが、二人の姿を掃いて横に消えた。二人は離れて歩く出した。
「心配しなくてもいい」
関川は美恵子を勇気づけた。
「ぼくはできるだけのことはする。その代わり・・・」
と、彼は歩きながらつづけた。
「ぼくの言う通りにしてくれ。店も、すぐやめるんだな」
恵美子にとって、思いがけない親切な言葉だった。
「でも、まだいいんです」
彼女は嬉しそうに答えた。
「いや、今がいちばん大事な時だ。無理をすることはない、体をこわしたらどうする?」
「ええ」
ハンカチを出して、涙をふいた。
「店のママには明日にでも話してやめるんだな。いや、理由は別なことを話して、店を、やめたくなったと言えばいい」
「ええ、そうしますわ」
「その、やめる理由を、今晩、よく考えておくんだね」
「ええ」
恵美子は、五分前とはうって変わった元気な歩き方になった。
「もう、いいんだよ。さあ、話しが決まったら、今度はぼくの言う通りになるんだよ」
通りがかりのタクシーの運転手が、暗い路を歩いている男女を、横目で見ながら走り過ぎた。
2025/05/20
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