~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (下)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
彼 女 の 死 (一)
午後十一時十五分だった。この時間は、電話に出た看護婦が、自分の個室に入って寝ようとしていた時だから、よく憶えている。電話の声は男だった。
「そちらは、上杉医院ですか?」
「はい、そうです」
「産婦人科の上杉さんですね?」
「はい、そうですが」
「急患があるのですが、至急に先生に来ていただけないでしょうか?」
あとで看護婦が述べたところによると、その男の声はまだ若かったという。
「どちらさまですか?」
「いや、はじめての者です」
この意味は、まだ上杉医院に一度もかかったことのない患者と言っているのだ。
「いったい、どうなさったんですか?」
「妊娠している女ですかね、急に倒れて、出血がひどく、気を失っているんです」
「そうですね、今晩は、もう、遅いですから、明日にしていただけませんか」
「明日の朝になると、死ぬかも知れませんよ」
男の声は、看護婦をおどかしているように聞こえた。
「ちょっと、待って下さい。先生に聞いてみます」
看護婦は受話器を置いて、廊下伝いに奥へ行った。医院の裏が医者の母屋になっている。
「先生」
看護婦は母屋の廊下に立って、障子越しに呼んだ。
「先生」
障子にはまだ灯がついている。医者は起きているのだった。
「何だね?」
「急患だと言って、電話がかかっています」
「急患。どこからだ?」
「それが、はじめての患者さんだそうです。なんですか、妊婦が倒れて、出血がひどいそうです」
「なるべくなら、断わってくれよ」
医者はおっくうがっていた。
「それがたいそうな重体で、明日の朝まで放っておくと死ぬかも知れない、と言っています」
「だれが言っているのだ?」
「おとこの声です。患者の旦那さんの方があわてているのじゃないでしょうか」
看護婦は自分の想像を言った。
「しようがないな」
死ぬかも知れない。という言葉が医者にもこたえたらしい。
「よく、所をきいておけよ」
看護婦は電話口に戻った。
「これからお伺いします」
「そう、それはどうもすみません」
ほっとしたような声だった。
「お所は?」
「祖師ヶ谷大蔵の停留所から、北の方に、大きい道路がついています。それをまっすぐ行くと、明神社という宮さんがあります。そのお宮さんの境内の横について左側にはいると、杉垣の家で、久保田保雄という標札がかかったいます」
「久保田さんですか?」
「いいえ、ぼくの方は、その久保田さんの家の裏の離れを借りています。入口は、裏にも木戸がありますから、そこからはいってもらって結構です」
「お名前は、何とおっしゃいますか?」
看護婦は電話の相手に聞いた。
「三浦と言います。三浦恵美子です。恵美子が患者の名前です」
「わかりました」
「あの、すぐ、来ていただけますか?」
「はい、参ります」
「お願いします」
看護婦はあまり機嫌がよくなかった。せっかく、寝ようとした矢先を邪魔されたのである。
看護婦が、煮沸器に注射器などを入れて支度していると、奥から医者が出て来た。五十過ぎの男だ。カゼをひいているので、咳をしている。
「おい、用意はできたか?」
「はい、今、煮沸が終わったところです」
医者は、これから持っていく注射器を取りに、薬局に行った。
「三号室が空いていたな」
医者は出て来て看護婦に言った。
「はい」
「都合によって、病人をここに連れて来ることになるかもわからない。奥へ行って奥さんに、掃除をしておくように言ってくれ」
医者は、カバンに道具を詰めていた。
2025/05/24
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