~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (下)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
彼 女 の 死 (三)
看護婦が呼びにいったので、この家の母屋の人が起きてきた。五十ぐらいの夫婦者である。
「どうかしやのですか?」
妻の方が敷居側からびっくりした顔をのぞかせた。
「私は、上杉という医者ですが」
「はあ、お顔はよく存じあげています」
「今、電話でこの家に呼ばれたんですがね。それで病人を診ているんですが、この人のご主人はいませんか?」
「ご主人ですって?」
家主が答えた。
「そういうかたはいませんよ。この女は、一人でこの家に越して来たのです」
「一人でですって? だが、さっき電話をかけてきた人がいますよ」
医者は看護婦を見た。
「ええ、男の人の声でしたわ。すぐ、ここに来てくれ、と言ったのです」
「いいえ、それは、わたしの方じゃありません。なにしろ、この女が病気になってるとは、ちっとも知りませんでしたからね」
「先生、いったい、どうしたんですか?」
主婦がこわごわ入って来て、布団の裾から病人の方をのぞくようにした。
「危篤です」
医者は言った。
「なんですって? 危篤ですって?」
夫婦はそろって目をむいた。
「それもおそらく絶望でしょう。心臓が微かに動いていますが、たぶん、もう、だめだと思います」
「ど、どうしたんえしょう?」
「この女は妊婦ですね」
「妊婦?」
「つまり、妊娠ですよ。四ヶ月ぐらいだろうと思います。よく診てみないとわからないが・・・流産ですね」
この流産という言葉を出すのに、医者はちょっと手間取った。医者には別な考えがある。しかし、今は穏健な言葉を選んだという感じだった。夫婦は顔を見合わせた。
「先生、どうしらたいいでしょう? 困ったわ」
主婦が言った。
「普通なら入院ですが、入院させても、この状態では、とてもだめですね」
「大変なことになったものだ」
家主が言った。その口ぶりは、ここで死なれた場合の迷惑が露骨に出ていた。
「身寄りの人はいないんですか?」
医者が聞いた。
「はあ、だれもいません。なにしろ、今日、引越して来たばかりの女ですからね」
「今日? そりゃア・・・」
医者は、病人の顔を改めて見直しようにした。
それでも、医者は看護婦に命じて、強心剤を素早く射った。
「意識があるのですか?」
家主がのぞきながら聞いた。
「いや、もう、何もわからないでしょう」
その声の下から、ふいに女の唇が動いた。医者がはっとして見つめると、
「・・・とめてちょうだい。ああ、いや、いや。どうかなりそうだわ。もうやめて、やめて、やめて・・・」
と、蒼い顔の女が、うわごとのように口走った。
2025/05/26
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