~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (下)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
彼 女 の 死 (六)
この久保田家から産婦人科の上杉医院までは、歩いてニ十分ぐらいだった。
上杉医院は、この辺にいかにもふさわしいような門構えの奥に建っている。住宅を改造したらしく玄関まで行くのに、両側は庭石や植込みのある庭園になっていた。
「なにしろ、驚きましたね」
出て来た上杉医師は、今西に話した。
「行ってみると、ああいう状態です。もうどうにも手のつけようがありませんでした」
「死因は何ですか?」
「転倒したため腹部を強打し、そのため急激な流産となったのですね。胎児も死んで出ていましたよ。直接の死因は出血多量です。腹部を診ましたが、内出血がはっきり、ありました。つまり、転倒した時にできた痣ですな」
「先生が診られた時は、意識はなかったのですか?」
「行った時はなかったようです。しかし、息を引き取る前でしたか、その意識が瞬間にさめて、妙なことを口走りましたよ」
「え? 妙なこと?」
「正常な意識ではないから、うわごとのようなものですが・・・・、とめてちょうだい。ああ、いや、いや。どうかなりそうだわ。もうやめて、やめて、やめて・・・、といったような言葉でした」
「待ってください」
今西は急いで手帳を出した。
「もう一度、言ってください」
上杉医師はその言葉を繰り返した。今西は手帳に丁寧にそれを書いて復誦した。
「とめてちょうだい。ああ、いや、いや。どうかなりそうだわ。もうやめて、やめて、やめて・・・、というんですな」
「まあ、そう言った言葉です」
「先生がすぐ所轄署にこれを届けられたのはそういうわけですか?」
「私が最初から診ていた患者ではないですからね。やはり、私が診断書を書くわけにはいきません。あとで問題になった時に困るんです。一応警察に届けて、行政解剖をお願いしたわけです」
「それはいいご処置でしたね」
今西はほめた。実際、その死体をすぐ焼き場に持っていかれて、骨になっては困るのだ。
「ところで先生、その病人のことをこちらに知らせたのは、家主ではなかったそうですね」
「そうなんです。あれは、電話で知らせを受けたんですよ。ちょうど、寝る前でしてね。十一時すぎでしたか、晩酌を切り上げようとしたとき、看護婦が電話のことを知らせて来て、往診はどうするのか、とききにきたのです」
「その声は男だったですか、女ですか?」
「ちょっと待ってください。看護婦をここに呼びます」
二十七八のしなびたような顔の看護婦が来た。
「まだ若そうな男の声でした」
看護婦は医者に言われて、今西に答えた。
「一度、断わったのですが、急に倒れて出血がひどく、気を失っているから、すぐ往診に来てくれと言っていました」
「それは、自分の細君とは言いませんでしたか?」
今西が聞いた。
「いいえ、別にそんなことは言いませんでしたが、わたしは患者の主人だと思いました。明日の朝にしてくれないかと言うと、その人は、明日になると死ぬかも知れないと言いました」
死ぬかも知れない・・・・。今西はその言葉にちょっと考え込んでいた。
「警察の方で、死体を持っていったのは、昨日ですか?」
彼は医者に聞いた。
「そうです。患者の心臓が止まったのはその晩の午前零時二十三分でした。私は簡単に死後の処置をして帰ったのですが、夜が明けるとすぐに警察に連絡したのです。ですから、たぶん、昨日の午前中に都の監察医務院に運んだのではないかと思いますね」
「いや、いろいろありがとうございました」
今西は頭を下げて、その医院を出た。
2025/05/28
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