~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (下)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
彼 女 の 死 (十二)
「関川さんのところに女の電話がかかってきて、それを関川さんが書斎で話すのは、一人だと言いましたね。それ以前のことはわからないとも言いましたね?」
「ええ」
「いや、私が聞きたいのは、そういう電話が掛かって来るのは、あなたの知っている限り、一人だけではないという気がするんですよ。どうでしょう?」
「そうですね」
おばさんは考えていたが、
「まあ、めでたい縁談のことですから、あんまり、関川さんに都合の悪いことを言っても具合が悪いでしょう」
「いや、どうぞ遠慮なしに言って下さい。先方に伝えていいことと、悪いことは、ちゃんと、これで区別するつもりですから」
「そうですか。実は、あなたのお察しのとおりなんですよ」
おばさんは白状した。
「関川さんが必ず書斎に電話をとるのは、実は、もう一人、女のひとがいました。けれど、ここしばらく、そっちの女からは掛かって来ませんね」
「それは、いつごろから、電話が掛かって来なくなりましたか?」
今西栄太郎は中村トヨの口もとを見つめた。
「そうですね。もう一ヶ月以上にはなりますね」
今西栄太郎ははっとした。成瀬リエ子が自殺したのは、そのころではなかったか。
待て待て。これは、もっとよく聞いておかねばならない。
「そっちの方の女の名は、わかりませんか?」
「わかりませんよ。やっぱり、関川さんを呼んでくれというだけです。わたしの考えでは、あれはバーの女ではないかと思いますね」
「バーの女?」
今西は、少し当てがはずれた。成瀬リエ子は劇団の事務員だったのだ。
中村トヨはつづけた。
「とてもはすっぱな言葉づかいでしたよ。口のきき方も乱暴なくらいなんです」
少し妙だった。成瀬リエ子がしおんな口のきき方をしただろうか。
しかし、時間が合うのだ。トヨの電話の聞き具合で、成瀬リエ子の声をそう感じたのかも知れないと、今西は思い直した。
「その人からは、たしかに一ヶ月ぐらい前から掛かって来なくなったんですね?」
「そうなんですよ。このごろは、さっきも言ったとおり、きれいな声の女、一人だけだったんです」
二人の間にちょっと沈黙が落ちた。今西が考え込んだものだから、中村トヨは、じろじろと彼の顔を見ている。
「関川さんは、友だちを自分の家に連れて来て、一緒に遊ぶということはありませんか?」
今西はふたたび質問をはじめた。
「いいえ、、それはありません。どういうものか、あの人は人嫌いの方ですからね。友だちを遊びに来させることは、めったにないんですよ。ただ、お客さまといえば、雑誌の編集者ぐらいなもんです」
「なるほどね。しかし、外では相当遊んでいるんではないですかね。夜なんか帰りが遅いでしょう?」
「今も言ったとおり」
と、中村トヨは述べた。
「わたしは八時までですから、そのあとのことはわかりません。でも、おっしゃるように、夜は遅く帰って来るようですね。近所のひとの話しでは、午前一時ごろに自動車のとまる音がするそうです」
「やはり若いんだな。ところで、また、話しが変わりますが、あなたは関川さんがどこで生まれたか知っていますか?」
「あの人は、あんまり自分のことをわたしに言いませんよ」
中村トヨは、ちょっと不満そうに答えた。
「でも、そういうことは、戸籍をみれば、わかるでしょう?」
「わかります。わたしの方も、一応、抄本を取ってみたんですがね。東京の目黒が本籍になっています」
「東京ですって?」
おばさんは考え込んでいた。
「さあ、どうでしょう。生まれは東京とは思えませんがね。いえ、わたしは下町生まれですから、地方のことはわかりませんが、あの人の言葉は、根っからの東京人ではありませんよ」
「では、どこだと思います?」
「それはわかりません。でも、そんな気がするんです。へえ、抄本に本籍が東京と書いてあるんですか?」
「あります」
だが、」今西には関川重雄が東京生まれでないことはわかっている。目黒区役所に行って戸籍の原簿を見せてもらったのだが、本籍は他所からの転籍になっているのだった。
「いろいろ、ありがとうございました」
今西刑事は、中村トヨに丁寧におじぎをした。
「いえ、わたしの方こそ馳走になりました」
中村トヨと別れて、今西は都電へ出る坂道を上った。埃っぽい風が足もとに舞っている。今西は肩をすぼめ、うつむきながら歩いた。
2025/06/03
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