それから四日たった。今西が出先から本庁に戻ると、机の上に封書が二通置いてあった。一通は横手市役所からで、一通は横手警察署からだった。
今西は、横手市役所の方から封を切った。 |
「ご照会の関川重雄氏の本籍にお関する件をご回答申しあげます。
関川重雄氏は、当市字山内一三六一番地から、昭和三十二年に東京都目黒区柿ノ木坂一〇二八番地に転籍とおります」 |
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これは、目黒区役所の戸籍簿で調べてわかった転籍事項について念のため、転出先を確かめたのだった。
つづいて、彼は横手警察署の封を切った。 |
「前略、捜一第二五〇九号のご照会について、左のとおりご回答申しあげます。
横手市字山内一三六一番地に付き調査いたしましたところ。現在は農機具販売商山田正太郎(当五一歳)所有の家屋となっており、現在、同人が居住しております。
同人に付き、関川重雄のこと及び同人父関川徹太朗及び同人シゲ子の生前の様子を尋ねたところ。同人は右三人についてはいっこうに知識がない旨を答えました。
同人の申し立てによると、同番地に移って来たのは昭和十八年で当時は雑貨商桜井秀雄所有になっており、それ以前のことはわからない、と言っております。
なお、右桜井秀雄について調査したところ、同人は関西方面に移住した由にて、同人についてこのうえお取調べの際は、大阪市東成区住吉××番地の転住先へご照会願いとうございます。
なお、関川一家について心当たりの市民を尋ねましたところ、右事情を知る該当者なく、やむなく調査を打ち切りました。
右ご回答申しあげます」 |
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今西栄太郎はがっかりした。
これで秋田県横手市における関川重雄の消息は断たれたのである。
だが、今西は最後の努力を傾けた。それは、大阪に転住したという桜井某である。
この男なら、関川重雄の父徹太朗を知っているかも知ればい。ただし、当人が大阪の転住先にいるかどうかは不明だった。
とにかく、どこまでも糸をたぐってゆくのだ。
今西は、机の引出しから、役所の複写便箋を取り出して、紹介状を鉄筆で書きはじめた。
それを書きあげて、封筒に入れ、宛名を書いたとき、若い刑事が今西の横に来た。
「今西さん、あなたあてに小包ですよ」
「いや、すまん」
小包は細長いものだった。
荷札の表には「東京警視庁捜査一課内今西栄太郎様」とあり、裏には「島根県仁多郡仁多町、亀嵩算盤株式会社」と、これだけは印刷で、その横に「桐原小十郎」と筆書きしてあった。
今西栄太郎は、さっそく、その包みを解いた。
中から、ケースに入った算盤が出て来た。ケースの表には「雲州産亀嵩算盤」とある。
今西は、算盤を出した。ちょうど、手ごろの大きさである。枠は黒檀で、玉もすべすべして重い。全体が黒光りしている。今西は指で玉を弾いてみたが、実にすべりがよかった。
桐原小十郎といえば、この夏、出雲言葉を聞きに亀嵩まで行って会った老人だ。
今西は桐原老人を忘れていたが、老人の方は、今西を忘れていなかったのである。
桐原老人が今ごろどうしてこういうものを贈ってくれたのか、今西はちょっと見当がつかなかった。
ほかに手紙がついていないので、老人の意図はわからないが、たぶん、何かのついでに思い出して送ってくれたのかもしれない。
彼は、その算盤をケースに収めようとして差し入れたところ、折り畳んだ紙がケースの中から押し出されてきた。それが添え手紙で、いかにも桐原老人らしいやり方だった。
今西はそれをひらいた。
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「拝啓、その後如何お過ごし候やお尋ね申し上げ候。小生相変、雲州の山間にて逼塞致し居り候。この度、愚息の経営による工場にて新製品出来致し候。この品は在来の規格型をやや縮小し、事務上の便宜を考え、新工夫にて試作せるものに候。
その試作品を愚息より小生に頒け呉れ候えば、失礼ながら貴殿に一丁謹呈仕り候。
幸い今夏来遊の想出のよすがともなり候えば、欣快これに過ぎたるは御座無く候。
算盤の掌にひえびえと秋の村
今西栄太郎さま」 |
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田舎の人は親切だ。今西栄太郎は亀嵩の茶室造りの庭を目に浮かべた。そこに坐っているしなびたような老人の声が、この手紙からも聞こえそうだった。
句も桐原老人にふさわしい。
その家は、江戸時代の古い俳人がしばしば立ち寄ったところである。今西も俳句を詠むので、老人の手紙がいっそう親切に思えた。
あのとき、遠い所を訪ねて行ったのだが、目的を遂げずに帰って来た、ただ、副産物としては桐原老人と知り合ったことである。聞き取りにくい老人のズーズー弁が、彼の耳によみがえった。
ズーズー弁といえば、ずいぶん迷わされたものだ。この関川重雄も東方生まれらしい。
今西栄太郎は、亀嵩算盤を引出しに丁寧にしまって、机の上に頬杖をついた。
関川重雄は、幼時に目黒に住んでいた高田富二郎という人に引き取られている。学校の記録簿を見せてもらったところでは、高田は関川重雄の親戚となっているが、戸籍面ではそうではないのだ。
それでは、高田富二郎は東北の生まれかというと、原籍地は東京になっている。関川重雄の場合のように、よそからの転籍ではないのだ。
東京生まれの高田富二郎と、秋田県横手に生まれた関川重雄と、いったいどのような関係で結ばれたのであろうか。親戚でないことは、戸籍簿ではっきりしている。
せめて、横手の方に、死んだ関川徹太朗を知っている人間が居たら、あるいは、この辺の事情がわかるかも知れないのだが、横手警察署の回答は、その望みを裏切っている。
残るはかない希望は、関川徹太朗がいた家に、昔、居住していたといわれる桜井秀雄なる男だ。この人は、大阪に転住しているので、この方に手がかりがつけば、多少の期待は持てるかも知れない。
しかし、これまでの調査からみて、これもまず、無駄であろうと、今西は浮かぬ顔で考えていた。 |
2025/06/04 |
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