~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (下)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
混 迷 (一)
今西栄太郎には、関川重雄について、さまざまな条件が設定されている。
(一)蒲田の殺人事件の時、被害者の連れ(犯人)にも、微かに訛りがあった。
×関川重雄は秋田県横手生まれである。犯人は蒲田からさほど遠くない所に住んでいると思える。現場を操車場に選んだのも、その辺の地理に詳しいと思われる節がある。
×関川重雄は目黒区中目黒二一〇三番地である。蒲田と目黒とは目蒲線で利用出来る。
(二)犯人は、被害者三木謙一を殺害した時、相当な返り血を浴びていると思われる。それで、犯行後は電車を利用したとは思われない。タクシーを調べたが、該当者の発見はなかった。
しかし、届け出がないからといってタクシーの線が全くないとはいえない。運転手に血痕のことを気づかれないで乗車出来るし、ことに夜だから、いくらでもごまかしがきく。別な考え方には自家用車の使用がある。
×関川重雄は運転免許を持っている。しかし、彼は自家用車は持っていない。
(三)犯人は返り血のついたものを処分する。
×成瀬リエ子は血痕のついたシャツを小さく切って、中央線の夜汽車で撒いた。つまり、成瀬リエ子は犯人とは何かの関係を持っていた。
×成瀬リエ子と関川の線は未だ浮かんでこない。しかし、成瀬リエ子は失恋めいた文句を書いて、自殺している。その自殺は失恋による打撃でなく、彼女が犯人に協力したという道徳的責任ともみられるようだ。
しかし、現在のところ、関川重雄と成瀬リエ子との関係は浮かんでこない。だが、彼女は内気な性格で男友だちの噂もなかったようだから、それだけで関川との間が何もなかったとは言い切れない。だれにも知られずに交渉を持っていたと考えられないこともない。
成瀬リエ子は前衛劇団の事務員だった。そこには、奇妙な死にかたをした俳優宮田邦郎が所属している。宮田と関川重雄とは、仕事の関係から面識はあった。ヌーボー・グループというのが、前衛劇団の後援者の存在だったから、その線で関川重雄は成瀬リエ子と知り合った機会は考えられる。
(四)成瀬リエ子の死は、はっきり自殺である。遺書めいた謎の文句でもわかるように、彼女の死の原因は失恋とされている。
×成瀬リエ子の失恋が恵美子の存在を知った時にはじまったとしても、不合理ではない。宮田邦郎は成瀬リエ子に心を寄せていたようだ。したがって、彼が成瀬リエ子と関川重雄の間を察知していたとしても不思議ではない。彼は今西栄太郎に何かを話したがっていた。その話はたいそう重大だった。宮田自身が一日考えさせてくれと言ったくらいである。その宮田が急死した場所は、世田谷区粕谷町××番地という寂しい土地だ。
×目黒と世田谷とは近接している。関川重雄の自宅から、宮田邦郎の倒れていた現場までは、タクシーでニ十分ぐらいである。
蒲田殺人事件当日の関川重雄のアリバイを追求する方法はない。
すでに五ヶ月も経っていることだし、だれの記憶もうすれている。
ただ、三浦恵美子の死んだ時間には、関川は自宅にいなかった。これは、関川の家で家政婦として働いている中村トヨの証言だ。
次に恵美子自身の問題である。
彼女は、川口の今西の妹の家を、午後おそく出ている。そして祖師ヶ谷の久保田という新しい間借の家には、だいたい、八時ごろに着いたという。もっとも、久保田の家では、荷物の到着した音で、恵美子がそのときに来たものと考えたらしい。
事実は恵美子の姿を見たのではないのだ。
すると、荷物だけが裏の離れの座敷に運ばれて、本人はあんがい、来なかったかも知れないという推定も可能である。
医者がふしぎな男の電話で呼び出されたのは、だいたい十一時ごろだ。このとき恵美子はすでに死の直前だった。
このようなことから考えて、八時ごろ、荷物だけが着いたが、彼女は久保田の家には到着していなかったのかも知れないのである。
すると、川口の妹の家を出て、バーで話をつけたあと、彼女はどこにいたのであろうか?
医者の診断によると、彼女は転倒して流産し、その出血のために死亡したのだが、転倒場所はいったいどこか。
それが久保田の家でないことはわかる。今西は観察医務院の医者の話しで、強打したものは、たとえば丸っこい石のようなものだと聞かされた。ところが、久保田家の離れにはそのようなものは見当らないのだ。
そこで、ひとまず今西が立てた想定は、次のような順序になる。
恵美子の荷物は、運送屋の手で川口の妹の家から出たが、いったん、その店に置き、しばらくして若い男が取りに来た。それは、二回に分けて運搬された。
その往復には三時間かかったという。終了時がだいたい八時ごろである。これは久保田家の言うことと合う。
その間、恵美子は銀座からすぐにその祖師ヶ谷には行かず、別な場所にいた。荷物だけはあの若い男が運んだのだ。つまり、銀座のバーを出てから、祖師ヶ谷の久保田家に医者が呼ばれるまでの恵美子の行動が全く不明なのである。
これさえはっきりわかれば、今西も落ちつける。だがこの鍵を一番握っているのは、例の荷物を運んだ男だ。それと、医者に電話した男である。たぶん、この二つは同一人であろう
今西は考えれば考えるほどわからなくなったくる。が、ふと自分が殺人事件でも何でもない、ただの病死をしきりと追っていることに気づいた。恵美子の死は自然死なのだ。
2025/06/05
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