~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (下)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
混 迷 (二)
今西は鉛筆で顎を叩いたが、気分を変えたように机の前の電話のダイヤルをまわした。
「吉村君かい?」
今西は送受器に話しかけた。
「そうです。あ、今西さんですね」
久しぶりの声だった。後輩だったが、長く会わないと何となくなつかしくなってくる。それも、いま考えあぐねて頭が痛くなっているときだから、一種の休息をこの若い刑事に求めたかった。
「お元気ですか。すっかりご無沙汰しています」
吉村の声は笑いを含んでいた。
「どうだい、帰りに久しぶりに落ち合おうか?」
「結構ですね」
「忙しいかね?」
「そうでもありません。今西さんこそどうです?」
「とくに忙しいほどでもない。とにかく会おう」
「わかりました。じゃ、いつものところですね?」
「ああ」
電話を切った。
本庁の勤務時間がすむと、今西はそのまま渋谷に向かった。ガード横の小さなおでん屋だ。
六時半というと、この界隈は人出の盛りだったが、おでん屋の中は空いていた。
「いらっしゃい」
おかみさんが鍋の向うで、今西に笑顔をつくった。
「お待ちかねですよ」
おかみさんは、いつも、二人連れで来る顔を覚えている。
隅で吉村は笑いながら手をあげた。
「ここですよ」
今西は吉村とならんだ。
「しばらくですね」
「ほんとうだ。── おかみさん、さっそく、つけてもらおうか」
彼は吉村の方を向いた。
「どうだね?」
その先は低声になって、
「例の停車場の方は、あれっきりかい?」
こういう場所で、そんな話をしたくないのだが、吉村の顔を見ると、その質問がおさえきれなかった。それを考えていた矢先なのである。
吉村は軽く頭を振った。
「何も出て来ません。ぼくは暇をもいては、やっているんですが」
捜査本部が解散されると、あとは任意捜査となるが、そもすると、事件捜査は半分打ち切られた形になる。刑事が個人的によほど熱心でないと、捜査の継続はむずかしいのだ。
「大変だね」
今西は、吉村と、運ばれて来た酒のコップを合わせた。
しばらく二人は無口になっていた。
「今西さんの方はどうですか?」
吉村が聞いた。
「いや、ぼつぼつやっているけれどね。君とおんなじで一向にはかがいかない」
今西は、自分の考えていることを話したかった。話しながら何かいい智恵が途中で浮びそうな気もする。だが、酒を飲みはじめたばかりで、まだその気分になれなかった。そのうち、吉村に打ちあけるつもりだった。
こうして気心の知れた若い同僚と酒を飲むのは、いいことだった。もやもやとした今までの気分が、この時間だけでも軽くなった。
「今西さんと東北の方に行ってから、もう五ヶ月になりますね」
吉村が話しかけた。
「そうだね。六月になろうというときだった・・・」
「あんがい暑かったのを覚えていますよ。ぼくは東北だからお思って下着なんか厚目のを着て行ったんですが」
「早いものだな」
今西は酒を含んで目を細めた。
あれから、いろいろなことがあった。ずいぶん、長く経ったようでもあるし、吉村の言うように短い時間のようでもある。
そのあとには、今西は出雲まで飛んでいるのだから、あの捜査は充実感があった。
このとき、吉村の肩を、一人の男が軽く叩いた。
「よう」
吉村が振り向いて、その男に笑った。
「久しぶりだな」
今西が見ると、彼の知らない人間だった。年齢ごろは吉村と同じくらいである。
「元気か?」
吉村が聞いた。
「元気だ」
「いま、何をやっている?」
「保険の外交をやっているよ。どうも、うだつがあがらない」
この時、吉村が今西にそっとささやいた。
「ぼくの小学校の友だちです。すみません。五分ばかり、奴と話しますから」
「ああ、かまわないよ。ゆっくり話しておいで」
今西はうなずいた。
吉村はそばを離れて行く。
2025/06/06
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