~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (下)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
混 迷 (四)
今西は自分の考えを確かめるため、もう一度、初めから読み直したとき、吉村が隣に帰って来た。
「失礼しまし」
と、彼は今西に並んで坐った。
「君」
と、今西栄太郎は吉村に新聞を見せた。
「ほ、関川重雄ですね」
吉村もその活字が一番に目にはいった。
「まあ、読んでみたまえ」
吉村は黙って読みはじめ。しばらく活字を追っていたが、読む終わると、
「なるほどね」
と、片肱をついた。
「どうだね。その文章はぼくにはよくわからないが、やっぱ、和賀英良をほめているんだろうね?」
「それは、そうですよ」
吉村は、一も二もなく言った。
「たいへんなほめ方です」
「ふむ」
今西はちょっと考えていたが、
「批評家というものは短い期間で評価が違うものかな」
と呟いた。
「どういう意味ですか?」
「つまりね、まえに、この関川が和賀英良の音楽のことを、書いたのを読んだことがあるがね。こんなにほめていなかったよ」
「そうですか」
「文句は、もう忘れてしまったが、何だか、それほど買ってないような言葉だった。ところが、これを読むと、その時の印象とまるで違うと思うね。ひどくほめている」
「批評家の言うことは」
と、吉村が言った。
「ときどき、決まっぐれがあるそうですからね」
「ほほ、そんなもんかね」
「いや、ぼくもよく知りませんが、ぼくの友だちにジャーナリストがいましてね。そいつから聞いたんです。裏話がいろいろありますが、要するに、批評家も人間ですから、その時の気分しだい、批評が違ってくるんだそうです」
「そうすると、これを書いた時の関川重雄も、気分がよかったのかな」
「そうですね。しかし、これを見ると、だいたい、近ごろの活動に対する、総まとめの批評といったようなところですから、あんがい、花をもたせているのではないでしょうか」
吉村はうがったことを言った。
「そうかな」
今西、わからないといった顔をしている。
わからないというのは、彼自身がこのような文章の世界になじみが薄いからだ。しかし、とにかく人をほめるのは悪くいないことだ。
今西は吉村と飲みながら、やっと、彼に自分の調査を話す気分になれた。
しかし、それは、関川重雄をかなり被疑者に近い線で考えていることなのだ。いくら相手が吉村でも、それを打ちあけるには慎重にしなければならなかった。
いま、新聞記事で関川の名前を見て、今西は気を変えた。しばらく話を待とうと思った。説明は、いつでもできる。もう少し自分の考えを練ってからでも遅くはないのだ。
2025/06/09
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