今西栄太郎は朝起きると、もう一手紙を書いた。
昨夜は遅くまでかかっ、桐原老人宛に書いたのだが、しかし、もう一つ、手紙を出すべき相手があった。
それを思いついたのは、今朝、寝床の中である。
今西は目のあくのが早い方だった。寝床で煙草をゆっくり一本吸うのが習慣になっている。
こういう時に、ふと、思わぬ考えが起こるものだ。どこかにまだ眠気が残っているような弛緩した意識の状態の中で、下から浮きあがってくる泡のように、ぽかんと思いつきが出て来る。
── 蒲田操車場で殺された三木謙一は、伊勢参宮後すぐ東京に出て来きた。これは、養子の三木彰吉が警視庁に来て述べたことだ。
この時は、伊勢参宮をすませたらすぐ帰る予定が、途中で気が変わって東京見物になった、と簡単に考えていた。だが、三木謙一にその予定を変えさせた、何かがあったのではないか。単純に気が変わったというだけで説明出来ない必然性があったのではないか。
三木謙一が、伊勢参宮の途中で東京行きに切り換えたのは、彼が殺される原因にも、つながっているように思える ──。
今西栄太郎は、煙草を灰皿にこすりつけると、寝床から起きあがって、顔を荒い、机の前に坐った。
昨夜書いた桐原老人宛の手紙が、封筒に入れたまま置いてある。彼はまた昨夜の便箋書きはじめた。宛名は三木彰吉だった。
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「その後、お変わりございませんか。
私は警視庁の捜査課の刑事です。お忘れになったかも知れませんが、あなたがご尊父の不幸について上京されたとき、お話しを伺った者です。
ご承知のように、あの事件は、いまだに犯人の手がかりが摑めず亡きご尊父の霊に対しても、まことに申しわけないしだいです。しかし、われわれは、捜査本部を解散したからといって、犯人の追求をやめているわけではございません。あくまでも憎むべき犯人を探し出し、一日でも早くご尊父の霊を慰めてさしあげたいと思います。また、捜査にたずさわるわれわれとしては、どのような手を尽くしてでも犯人を捕えずにはおきません。絶対に迷宮入りはさせないつもりであります。
事件は大変困難な状態になりっました。解決に向かうためには、どうしても、ご遺族の方々のご協力を得なければ効果に期待がもてないのであります。
つきましては、ご尊父が伊勢参宮に出発された以後、東京の浦田の現場で遺体が発見されるまでの間、どのような場所を旅行されていたか、おわかりになればお知らせ願いたいと思います。
たとえば、何日にはどこの「どういう宿に泊まられたかが、わかれば、一番ありがたいと思います。
あのとき、おたずねしたと思いますが、その時のご返事には、旅行途中の絵葉書が来ただけだ、と言っておられましたが、その後、以上のようなことが判明していれば、詳細にご報告ください」 |
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それから五日経った。
その五日間、今西栄太郎に格別の変化はない。小さな新しい事件を二つ三つ手掛けたぐらいだった。だが、これはすぐに解決がついた。
その晩、今西が帰宅すると机の上に封書がのっていた。裏を返すと「岡山県江見町××通り 三木彰吉」と几帳面な書体でペン書きしてあった。
今西は着替えもしないで、さっそくそれをひらいた。
この返事を待っていたのだ。 |
「拝復、お手紙拝見いたしました。亡父のことについていろいろお手数をわずらわしまして恐縮しております。
また、お手紙によって、亡父のために犯人追及に日夜努力くださっていると承り、感激しております。遺族といたしましては、出来る限り捜査にご協力いたしたいのですが、非力のためお役に立てないのを、残念に思っております。
亡父は私の口から申しますとおかしいようですが、人に情けをかけこそすれ、決して他人の恨みを買うような人出はなく、再三、申しあげましたように、全くの善人でございます。こういう人を殺した犯人がいつまでもわからない道理はなく、天道もそれを許さないと思います。私どもは毎朝毎晩仏壇にお線香を上げて犯人逮捕を祈っております。
ご質問の件は、次のようにご回答申し上げます。
亡父が旅先から出した絵葉書は全部で八通ございます。
〇四月十日付──岡山駅前 大宮旅館
〇四月十二日付──琴平町×× 讃岐旅館
〇四月十八日付──京都駅前 御所旅館
〇四月二十五日付──比叡山にて
〇四月二十七日付──奈良市油小路 山田旅館
〇五月一日付──吉野にて
〇五月四日付──名古屋駅前 松村旅館
〇五月九日付──伊勢市××町 二見旅館
だいたい、以上のとおりです。
これでもわかるとおり、亡父は当市を四月七日に出発して以来、各地を気ままに旅しております。たとえば、岡山市で一泊したのは近くの後楽園や倉敷などにも行き、知人を訪ねております。讃岐に渡ったのは。もちろん、金毘羅さまにお詣りして高松から屋島を見物したものと思います。亡父は、いつもそれを口にしていましたから。
京都では、たっぷりと滞在し、琵琶湖や、比叡山に登っております。さらに、吉野まで足を伸ばし、旧跡を訪ねております。亡父は、史跡に興味を持っておりました。
名古屋でも、四日ほど見物して歩いております。それから、いよいよ念願の伊勢参宮をしたわけです。
これらは、みんな絵葉書ですが、それに書かれた短い通信文も、実に楽しい旅をしているという感想ばかりです。
亡父は伊勢参宮をすまして、すぐに帰郷する予定になっていました。現に、名古屋からのはがきにも、あと三日したら、郷里に帰ると書かれております。そこには東京行きのことなど、一言も触れておりません」 |
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2025/06/11 |
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