~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (下)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
混 迷 (十)
「りがとうございます」
接客業者というのは、たいてい、警察の人間に丁重である。この宿の主人の態度にも、客というよりも、警察官への低い物腰が露わに現れていた。
「いつ、こちらへお見えになりましたか?」
主人は今西に聞いた。
「昨夜、発ちましてね。今朝、着いたばかりです」
今西は、できるだけ愛想のいい顔をした。
「それは、さぞ、お疲れでございましょう」
主人は、ものを言うたびに頭を下げた。東京の警視庁から、わざわざ来たというので、主人は、内心では気がかりのようだった。
旅館となると、いろいろな人を泊める。盗難もある。手配中の犯人もいる。そういうことが、あとで旅館側に思わね面倒を起こすのである。
「実は、少々、お伺いしたいことがありましてね、東京から来たようなわけですよ」
今西は、おだやかに言い出した。
「ははあ、さようですか」
主人は小さな目で今西を見つめた。
「いや、ご心配になるようなことではありません。参考までに、お尋ねするだけですから」
「はあ」
「今年の五月九日に、お宅に泊まったお客さんのことで知りたいのですよ。お手数ですが、ちょと、宿帳を見せてくれませんか?」
「へえへえ、かしこまりました」
主人は卓上の電話を取って、宿帳を持って来るように命じた。
「しかし、何でございますね。旦那方も大変でございますね」
主人は、やや安心したか、多少気軽そうに今西をねぎらった。
「ええ、まあ・・・仕事ですからね」
「しかし、東京の警視庁の方がお見えになるのは初めてでございますよ。いえ、こういう商売をしておりますから、土地の警察署にはしじゅうご迷惑をかけておりますが」
話しの途中に女中が入って来た。
主人は女中から宿帳を受け取った。
「ええと、五月九日でございますね?」
「そうです」
主人は綴じた伝票を繰っていっる。
近ごろの宿帳は、昔のように帳面ではなく、伝票形式になっている。
「ございました。この辺が五月九日でございますが」
主人は、今西の方に顔を上げた。
「何とおっしゃるかたでしょう?」
「三木謙一という人です」
今西が言うと、
「三木さん? ああ、ちょうど、ここでしたよ」
主人はそのまま今西に「宿泊人名簿」をまわした。
今西はそれを受け取って、目をこらした。
「現住所 岡山県江見町××通り。職業 雑貨商。氏名三木謙一。五十一歳」
いかにも律義そうな字体だし、省略のない字である。
今西は、この文字にじっと見入った。殺された不幸な三木謙一の筆跡だ。この文字と、今西自身が蒲田操車場で実地検証したときの無残な支隊とが、どう考えても結びつかなかった。
この文字を宿帳に書いた時、三木謙一み、自分の前途に悲惨な運命があるなどとは思ってもみなかったであろう。彼は岡山県の山奥から、一生の想い出に四国に渡り、近畿の名所を訪ね、ようやく、念願の伊勢参宮に来たのである。そう考えてみると、思いなしか、その字体も心の張りつめが見られるようだ。
名簿の横には「澄子」と係り女中の名前があった。
「この人は、九日に一泊しかしていませんね?」
今西は主人に聞いた。
「はい、さようで」
主人も宿帳を覗き込む。
「ご主人は、このお客さんをご存知ないでしょうね?」
「へえ、私は、ずっと奥の方にいるものですから、どうも」
「澄子さんといおうのが係りの女中さんですね?」
「そうです。おたずねのことがあったら、澄子をここに呼びましょうか」
「お願いします」
主人はまた電話を取って、その女中に来るように命じた。
2025/06/12
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