~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (下)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
混 迷 (十一)
澄子は、二十二三ばかりの、背は低いが、いかにも働き者のような女中だった。身なりはあまりかまっていないが、頬が赤い。
「澄子。このお客さまが、おまえの受け持ったこのお客さんのことで、何かお尋ねになりたいそうだ。憶えているとおりのことを、みんなお話し申しあげてくれ」
主人は女中に言った。
「あなたが澄子さんですね?」
今西は笑い顔で言った。
「はい」
「あなたはおぼえているかな? 宿帳には、あなたが受け持ったことになっているが、こういう人に記憶はありますか?」
今西は宿帳を女中の前に見せた。
澄子はじっと見ていたが、
「萩ノ間ですね」
と、ひとり言のように呟いて考えていたが、
「あ、憶えています。その人なら、確かにわたしが受け持った人です」
とはっきり答えた。
女中が憶えていると言ったものだから、今西栄太郎は客の人相・特徴を述べさせた。
すると、女中の申し立ては、正しく三木謙一に間違いないのだ。
「言葉はどうでした?」
今西は聞いた。
「そうですね、ちょっと変わった言葉でしたよ。何だかズーズー弁のようでしたから、わたしは東北の方ではないかと思いましたわ」
今西は、もう絶対的だと思った。
「そんなに聞き取りにくかったかね?」
「はい。はっきりしないんです。それで、宿帳には岡山県と書いてありましたが、お客さまは東北の方ではないでしょうか、と言うと、そのお客さんは、よく言葉で間違えららるんですよ、と言って笑っておられました」
「東北弁と間違えられると言ったんですね?」
「そうなんです。自分が長くいた村も、こういう訛りを使うんだとおっしゃっていました」
女中の話しからすると、三木謙一は、かなりこの女中と心安く口をきいていたらしい。
「そのお客さんは、ここに泊まった時、別に変わった様子はなかったまね?」
「はい、これという、変わったそぶりはありませんでした。ちょうど、この家に着かれた時は、昼間、神宮さまにお詣りしたあとで、明日は郷里に帰るのだ、とおっしゃっていました。そうですね。変わったこといえば、そう言ってらしたのに、急に翌日になって、東京に行くとおっしゃったことです」
「ははあ、その翌る日ですね、東京に行くと言い出したのは?」
そこが大事なところだ。
「そうです」
すると、三木謙一が郷里に予定を変更したのは、この宿に泊まった翌る日だったことがはっきりした。
「そのお客さんが、この宿に入ったのは何時ごろですか?」
「夕方でした。確か六時ごろだったと思います」
「宿に入ったきり、一度も外に出ませんでしたか?」
「いえ、お出かけになりましたよ」
今西栄太郎はこの外出に注意した。
というのは、この伊勢神宮には全国の人が参拝に来る。三木謙一は外出の時、途中で偶然だれか知った人間と出会わなかっただろうか。
その偶然のめぐり会いが、三木謙一に東京行を決心させた原因ではなかろうか ──。
「それは、ただの散歩でしたか?」
彼は女中に質問をつづけた。
「いえ、映画を見にいくとおっしゃっていました。
「映画?」
「退屈だから、映画でも見てくる、映画館はどこかと聞かれたので、わたしが教えました。ほら、この窓から見えるでしょう。あの高い建物です」
それは、さきほど今西が窓から覗いて、自分も見ている映画館だった。
「それで、映画館から帰ったのは何時ごろですか?」
今西栄太郎は女中に聞いた。
「そうです。九時半ごろではなかったでしょうか。確かそのころだと思います」
「つまり、映画館がハネたころですね」
「そうです」
今西栄太郎は、ちょっと失望した。
2025/06/12
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