もし、三木謙一が映画を見に行く途中でだれかと出会ったのなら、宿に帰る時間はもっと早くなるか、もっと遅くなるかしているはずだ。映画はハネた時間に帰ったとすると、まず、彼はだれにも会わなかったと、考えねばなるまい。
「部屋に帰った時のお客さんの様子はどうでした? もう、ずいぶん前のことだから、あなたも憶えていないかも知れないけれど、よく考えてみてください」
「そうですね」
女中は、そこに坐っている主人の顔をちらと見て首をかしげた。
「大事なところだから、おまえもよく考えて、間違いのないよに返事をするんだよ」
主人も口を添えた。
そう言われると、女中も真剣な顔になった。
今西は、すこしあわてた。
「いや、そう堅く考えなくてもいいですよ。気軽に思い出したままを言ってください」
「そうですね」
女中はやっと答えた。
「お帰りになったときは、別段、変わってないようでしたよ。ただ、次の朝の朝御飯の時間を少し延ばしたいとおっしゃっただけです」
「つまり、翌る日がお客さんの出発する日でしたね?」
「そうなんです。はじめは、郷里の方へ帰るから、朝御飯は八時ごろにしてくれ、九時ニ十分の汽車に乗りたいから、とおっしゃっていたんです」
「それが、どう変わったんですか?」
「朝飯は十時でいい。都合によって夕方までおの宿にいるかも知れないと言われたんです」
「夕方までね」
今西は膝を進めた。
「それは、どういう理由か言いませんでしたか?」
「別に何もおっしゃいませんでした。ただ、しきりと何か考えごとをしているようなふうでしたわ。あまり、わたしにも、ものをおっしゃいませんでしたので、わたしもお寝みなさい、と言っただけで、すぐに引き退りました」
「なるほど。で、次の朝はその時間どおりでしたか?」
「はい。そのとおりに十時には朝食を出しました」
「それから夕方まで部屋にいたんですね?」
「いいえ、そうじゃありません。お昼すぎから映画館においでになったんです」
「なに、映画館?」
今西はおどろいた。
「よくよく、映画がお好きな人ですな」
「いいえ、それが、同じ映画館でしたわ。わたしが途中まで用事があったので、一緒に行ったのでわかります」
「昨夜、見たばかりの映画を、もう一度見に行ったわけですな?」
今度は、今西がじっと考え込む番だった。
旅先で同じ映画を二度もつづけて見る ──それも子供でも若い者でもない、すでに五十を過ぎた老人なのだ。
その映画の何が三木謙一の興味をとらえたのか。
「次の日、その映画を見て帰り、その夜、この宿を発ったわけですね」
今西は女中に聞いた。
「はい、そうです」
「何時の汽車で出発しましたか」
「それは、わたしが帳場の時刻表を見て教えましたからわかります」
と、主人は言った。
「部屋から電話で問合せてきたので、二十二時ニ十分の名古屋発上り準急に接続する近鉄電車を教えました」
「それは、東京駅に何時に着くのですか?」
「東京駅は翌日の午前五時です。よくこの列車を利用して東京に行かれるお客さまが多いので、おぼえております」
「ここを出発する時も、そのお客さんは別に変わったことは言いませんでしたか?」
今西栄太郎は、また女中の顔に目を戻した。
「いいえ、気がつきませんでした。ただ昨夜まで岡山県の方に帰るように言っていたので、なぜ、東京の方にお出掛けになるのか、ちょっと聞きました」
「うんうん、それで?」
「急に思い立ったんだと言っておられました」
「急に思い立った、それだけですか?」
「はい、そのほかのことは、聞きません」
「なるほど」
今西は、ちょっと考えたが、
「その、お客さんが見た映画というのは、なんだったのですか?」
「さあ、それはよく憶えていません」
「じゃあ、いいです。それは、こっちで調べたらわかるでしょう。いや、どうもお忙しいところをありがとうございました」
「もう、それくらいでよろしいですか?」
主人が横から口を出した。
「ええ、たいへん参考になりました。ご主人、会計してくれませんか」
「あ、もうお発ちですか?」
「ぼくも、その列車を利用させてもらって、東京に帰りたいと思います。まだ時間の余裕があるようですから」
「そうですか」
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