~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (下)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
糸 (四)
「お雪さんが遊びに来たので、久しぶりに二人で映画に行ってきます。太郎は本郷に行っています。九時までには帰るつもりですが、おかずは戸棚の中に入れてありますから、召し上がって下さい」
今西は背広姿のままで、戸棚をあけた。近所の魚屋で作らせたらしいさしみと、大根と牛肉の煮合わせが盛ってある。
彼は食卓の上に皿を運んだ。
近ごろは、ジャーという便利なものができているので、こんな時間に飯櫃をあけても湯気が立っている。
火鉢の上にやかんがかかっていた。
今西は飯の上に茶をかけながら大根の煮たのをその上にのせた。冷たくなった大根と、熱い飯とが快い交錯で舌から喉に流れる。
一人で飯を食べながら、今日、岡山県の慈光園から回答のあった内容を考えていた。
飯を食べながら考えごとをすRYのは楽しい。女房がいないだけ、気持が乱されずにすんだ。
熱い食事が終わったせいか、ようやく、着替えをする気になった。楊枝を使いながら夕刊を何となく読んでいるところへ、玄関があく音がした。
「あら、帰っているわ」
という女房の声と、二人でクスクスと笑っているのが聞えて来た。
「ただいま」
女房がすこしぐあいの悪そうな笑い方をして入って来た。そのあとから、川口の妹がにこにこして顔を出した。
「すみません。お雪さんが来たので、つい、誘って行きました」
「あら、嘘よ。わたしが義姉さんを誘ったんだわ」
お互いに譲りあっていた。今西は新聞の続き物を読んでいる。
女二人は隣の間で着物を着替えながら、まだ映画の話をしていた。川口の妹は映画好き、俳優の演技のことをしゃべっている。
妻がふだん着に着替えてきた。
「御飯、おすみになりまして?」
「ああ、食べた」
「あなたがお帰りになるまでに、わたしたちは帰るつもりでしたけれど・・・」
「はい、兄さん、おみやげ」
妹が甘栗の袋を差し出した。
「何だ、おまえ、今日は帰らないのか?」
妹は義姉のふだん着を着ていた。
「ええ、ウチのがまた出張しましてね」
「やれやれ、夫婦喧嘩といえばやって来るし、出張といえば泊りに来る。困った奴だ。どうだ、映画はおもしろかったか?」
「まあね」
妻と妹とは、今西の横で、映画の評判をなだつづけていた。
今西は、新聞からちょっと顔を上げた。
「実は、おれも映画を見て来たんだ」
と、口を出した。
「あら、兄さん、ほんと?」
妹は、めったに映画など見ない兄に驚いていた。
「それで今夜遅くなったんですか?」
妻が聞いた。
「まさか。おれのは仕事だ」
「へえ、刑事さんでも映画を見る仕事があるの?」
「場合によってはね」
「何をごらんになったの?」
「『男の爆発』と『利根の風雲』だ」
「あら」
妹は笑いだした。
「ずいぶん、古い映画ね」
「おまえ、知ってるのか?」
「見たことあるわ。もう、半年ぐらいたってるわ。つまらない映画でしょ」
「そうだな」
今西は、目を新聞に戻した。
2025/06/17
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