~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (下)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
糸 (十四)
タクシーに乗って走り出すと、すぐ道端で男の子が立っているのを見かけた。男の子も、窓からのぞいている今西を見上げた。山下の家で最初に出て来た、あの片目の子だった。
なんとなく暗い気持ちに襲われて、今西はやりきれなかった。同じ年ごろだけに、息子の太郎のことを思い合せてしまうのだ。
今西が知りたいのは、山下秀夫という千代吉の子がどうなったかである。
お妙の話で、次のような事実だけは知り得た。
① 秀夫は、千代吉が旅に連れて出たまま消息が知れない。
② 秀夫の生死は不明である。しかし、死亡したという通知は、本籍地の役場には来ていない。
③ 秀夫と思われる人物がこの辺に立ちまわった形跡はない。
④ 秀夫の現在は、この村落のいかなる人物にもわかっていない。
今西栄太郎は、最後に重大なことをしている。それはお妙に、ある人物の写真を見せたのだ。写真は、新聞から切り抜いてきたものだった。
「さあ」
お妙は、それをしばらく眺めて首をかしげた。
「なにしろ、別れたときが、あの子の四つぐらいのときでしたから、この人に似ているかどうか、何とも言えません」
と言うのだ。
「しかし、あなたの妹さんか、千代吉さんに似たところはありませんか?」
「さあ、父親には似ていないようですね。そうおっしゃれば、多少、妹に目のあたりが似ていないでもありませんが、はっきりしません」
しかし、この返事は、それでもいいのだ。ここで、この写真の確認を得ようとは、はじめから思っていなかった。
今西栄太郎は、山中の町に着くと、タクシーを降りた。ちょうど腹が減っていたので、目についた飲食店に飛び込んだ。
「ソバをください」
彼がソバの汁をすすっていると、店のラジオが経済市況を報じていた。
「・・・株式市況を申し上げます。はじめに概況。前場の東京市場は、中材料含み株に買い気が進みまして、しだいに利食いの売物がふえ、全体として高安まちまちでした。
つぎに、一般銘柄では、化学薬品、車両機械、金属工業株、出遅れの石炭、紙が物色されたほか、利回りの多い電力株にも買い気が見られ、自動車、電機等一流株には利食いがふえ、安いものが目立っていました・・・日石一三二円、一円安。昭和石油一二五円、二円安。丸善石油一一六円、三円高。三菱石油一九二円、四円安。東亜燃料二八三円、変わらず。大協石油一二七円、一円高・・・横浜ゴム一三四円、一円安。旭硝子二七六円、四円高。板硝子四四六円、六円高。日本セメント一四六円、変わらず。第一セメント、商いできず・・・・」
今西は、ソバをすすりながらそれを聞いているうちに目の前に、山形の線が這うグラフを浮かべた。
「・・・名古屋糖一八八円、変わらず。大阪糖、商いできず。芝浦糖、商いできず。東洋糖、商いできず。甜菜糖二〇五円、変わらず。横浜糖三四〇円、変わらず。雪印一四八円、変わらず。キリンビール五五〇円、変わらず。宝酒造一六三円、変わらず・・・・」
変わらず、変わらず・・・か。
それは、今西の今の行動を言い当てているような気がした。
いろいろと動きまわったが、いったい、どれだけの前進をしたのか。全体から見ると、ほとんど以前の状態からそう変わっていない。
遠く北の国まで私費を使ってきたのだが、ここでも決定的な打開がなかった。
今西の目に、相場の高低が一本の曲線となって這っている。小さな山、大きな谷を描いて屈折したカーブ・・・すると、頭には、ふと、俳優の宮田邦郎の死んだ現場近くから拾った一枚の紙片が浮んできた。
それにも、数字の羅列だった。
今西は、ソバを食べ終わると、手帳を出して、それから写したのを読み返した。
「昭和二十八年 二五、四〇四
   二十九年 三五、五二二
   三十年  三五、八三四
   三十一年 二四、三六二
   三十二年 二七、四三五
   三十三年 二八 四三一
   三十四年 二八、四三八」
ラジオで聞いた株式市況が、この失業保険金給付総額の連想を起こしたのだ。
この数字は、果たして、宮田邦郎の死に関係があるのか。
偶然にその地点に落ちたものか、それとも宮田邦郎の死に何らかの要因をもっているのか。宮田邦郎自身がこんな数字に興味があるとは思えない。すると、だれかがそこに捨てたか、落としたかということに「なるが、そのだれかは宮田邦郎と関係のある人物だろうか。
今西栄太郎は、手帳を閉じた。
彼は今夜の汽車に乗るつもりでいる
ここまで来た目的は一応果せたし、一晩、温泉にはいって、悠々と一夜を過ごす気にはなれなかった。
彼はソバ屋を出た。町を歩くと、温泉やみやげ物屋が並んでいる。
彼は、その一軒の中に入った。」
どの店も同じことで、温泉みやげといっても、タオルや、ようかんや、饅頭などが多い。太郎ようかんを買って、ふと見ると、その陳列棚の中に、輪島塗りの帯留めがあった。今西がそれを眺めていると、女店員が寄って来て聞いた。
「いらっしゃいませ。いくつぐらいのおかたでしょうか?」
今西は、てれ臭い顔をした。
「三十七だがね」
それは妻の年だった。
「それなら、これがよろしゅうございましょう」
女店員は、塗りものの帯留めを五つ六つ、そこに並べた。
今西は、その中から一つを選んで包ませた。山中温泉に来た、それがたった一つの妻へのみやげであった。
2025/06/29
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