~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (下)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
無 声 (一)
今西栄太郎は、北陸から帰った翌日は、本庁から吉村に電話した。
「お帰んなさい」
吉村も帰りの早いのに、びっくりしていた。
「ずいぶん、早いんですね」
「往復とも夜行でね」
「着かれたでしょう」
「一日休んだから、それほどでもない。吉村君、今夜、話したいから家に来てくれないか」
「大丈夫ですか? お疲れじゃないんですか?」
「いや、かまわない。そうだ、スキ焼きでも突っつこう」
「それじゃ、うかがいます」
さいわい忙しい事件もなかった。今西は六時半ごろ家に帰った。
「おい、今夜、吉村君が来るからね」
と、彼は妻に言った。
「すぐに用意してくれないか。スキ焼きを約束しておいた」
「そうですか、吉村さんも久しぶりですな」
「久しぶりだ」
「でも、あなた、疲れてるんじゃないですか?」
「吉村君もおんなじことを言っていたが、なに、一日休んだから大丈夫だ。もう、来る頃だろうから、早くしてくれ」
「はいはい」
芳子は行きかけたが、途中で戻って、
「あなた、あの帯留めを隣の奥さんに見せましたよ」
今西が山中温泉から買って帰った輪島塗のみやげだった。
「賞められましたわ。ずいぶん、きれいですねって、わたしには少し派手じゃないかと思ったけれど、ちょうどいいそうですわ」
わずかないおみやげだったが、これほど喜ばれるとは思わなかった。
妻は、せっかく行ったのだから、ひと晩ゆっくり泊まって帰ればいい、とも言った。しかし、今西は、その気にはなれないのだ。私費で行っても、やはり出張と同じ気持になる。
一時間ばかりすると、今晩は、と言って、壽村が入って来た。
「あら、いらっしゃい」
玄関で芳子と吉村とが挨拶をかわしている声が聞こえた。
「見えましたよ」
妻のあとから、吉村がにこにこして顔を出した。
「いや、お疲れのところすまなかったね」
「今西さんこそお疲れでしょう。往復とも夜汽車じゃ楽じゃない」
「そうだね。まだ背中の方が痛い。若いときは平気だったんだが、やはり年だな」
「いや、若い者だってかないませんよ。今西さんの精力的なことは、ぼくなんかいつも驚いてるんです」
「あんまりおだてないでくれよ」
芳子が牛鍋を運んで来た。
「何もありませんけど」
盆に乗せた銚子と盃をそこに置いた。
「すみません、ご厄介になって」
芳子が二人の盃に酒を注いだ。
「ま、とにかく、乾杯といこう。お互い、体だけは丈夫だからな」
吉村も目の高さまで盃を上げた。
今西栄太郎は鍋を箸で突っついては、ときどき水をさしたり、砂糖をふりかけたりいして、味をみていた。
「どうでした、向うは?」
吉村は二三杯飲むと、本題に入った。
「とにかく、先方に会ったには会ったがね」
今西は、山中温泉近くの部落での顛末を話して聞かせた。
吉村は話の間に、ほう、とか、なるほど、とか相づちをうって、熱心に聞いていた。
「まあ、ざっとこんなしだいだ。たいしたことはなかったが、まあ、こちらが考えたとおりのことは、聞いてきたつもりだ」今西は話し終わった。
2025/07/01
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