~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (下)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
無 声 (五)
皇居のお濠に白鳥が寒そうに泳いでいる。並木の梢が風に震え、黄ばんだ葉が散っていく。
待望のフィルムが発見されたのだ。処分したというのに、一つだけあったのは幸運だった。ほとんど諦めていたところだった。今度こそ手がかりが摑めると思った。
── それにしても、あの田園調布の家は妙な話だ。
押し売りの男が二人行ったのに、二人とも変な気分になって、そそくさとそこを出たというのだ。
三日前の晩、その当人を呼んで話を聞いたが、その家の玄関で話をしているうちに、その押し売りの表現によれば、ちょうどエレベータ-が降りるときのような、体にずーんといやな感じを受けたという。
しばらくすると、頭が重くなって吐き気さえもよおしたというのである。
しかも、家の中は静まりかえっていた。物音といえば台所で皿が触れ合うくらいだったという。主人は黙って押し売りの言うことを聞いていたそうである。
それも、その押し売り一人だったら、そのときの生理状態で、そんないやな気分になることはありうるが、二人とも同じ状態になるというのは、当人の健康条件からではおかしい。いったい、どうしたというのだろう。
念のために、所轄署の交番巡査に行ってもらった。巡査はその家の玄関で十五分間もねばったが、気分は爽快で、いささかの変化もなかったという。巡査は今西にこう報告して、たった今、帰ったばかりである。つまり、押し売りだけが変な気分になったのに、ほかの者は普通だったのである。
どうも、わからなかった。
いったい、それは、何だろう。
今西がそんなことを考えて都電の吊り皮にぶら下がっていると、いつの間にか三原橋の停留所に着いた。
「いらっしゃい」
南映映画会社の建物の中に入って行くと、この間から世話してくれている係りが、今西の顔を見て笑った。
「刑事さん、すぐ試写室にいらしてください。準備はオーケーです」
今西はまた試写室に一人ですわった。
場内が暗くなると、彼の心臓は震えた。
いったい、何が写るのか、いや、そのフィルムから、三木謙一は何を発見したのか。
今西は完全に三木謙一の身になって、画面を見つめていた。
『世紀の道』はアメリカ映画で、なかなかの大作だった。背景を古代オリエントに取材したもので、大スペクタル映画である。長尺もので、間に休憩が十分はいっても、前後編三時間以上を要する。
予報編は、まず制作意図から説きはじめていた。それが終わると、東京の一般公開に先立ってロードショウ風景がニュース映画式び出た。
東京の一流劇場での光景が出る。ある宮さまが入場して関係者一同の並列している前をおじぎして通過する。
今西は目を皿のようにして見つめる。宮さまを迎えている映画関係者の顔が一瞬の間に過ぎたが、三木謙一の興味を惹きそうな人相はなかった。
つぎの画面は、当日来場した各界名士のスナップとなる。
新聞雑誌などでよく知っている顔がホールのあちこちで談笑していた。財界人もいたが、ほとんどは文化人や芸能関係の人だった。
今西は呼吸をつめるようにして凝視した。
画面は次々と変わっていく。今西は瞬きもできなかった。
名士は小さなグループを作って話したり、笑ったりしている。
それに解説が流れていた。画面に顔が出るたびに、声がその名前をあgている。
今西の知った顔はいなかった。いや、今西の期待する顔が出ないである。
画面はたちまち切れて、映画の鑑賞風景となる。
暗い座席で熱心に見つめている観客の顔がほのかに浮かぶ。その中にも、今西が待っている顔はなかった。
また、宮さまの顔になる。傍の人が説明申しあげていた。
また、変わって知名人の見物場面になる。だが、顔ぶれに変化はなかった。それも、ほんの三秒か四秒だった。スクリーンは、たちまち色彩がついて、『世紀の道』のシーンが始まった。
今度は、最後まで劇の紹介に終わっている。
2025/07/06
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