~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (下)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
航 跡 (一)
三重県伊勢警察署捜査課長より、警視庁捜査一課今西栄太郎への手紙。
「ご依頼の件、左のとおり報告申し上げます。
さっそく、当市映画館『旭館』経営主田所市之助氏につき聞きあわせました。
田所氏の話によると、三木謙一という人には、心当たりもないし、また、当時会ったこともないと行っております。これは前回、ご回答申し上げとおりであります。
田所氏はご承知のように、今度新内閣の農林大臣になられた田所重喜氏と、同じ村の出身でありま。同氏は田所重喜氏をひどく尊敬しております。
同氏は上京のたびに、田所重喜氏のところに立ち寄り、当県の名物も欠かさず届けて挨拶していたということであります。また、田所重喜氏夫妻には、ことのほか恩顧を受けていることも語っておりました。
そんなわけで、氏の自宅には田所重喜氏より来た手紙や、同氏の揮毫の書、写真などが、多数保存されてあります。そのうえ、田所重喜氏を崇拝する同氏は、自己の経営する旭館にも、田所重喜氏との記念写真を飾っていたこともあったそうでう。
試みに五月九日のことを聞きますと、同映画館の客席に入る途中、廊下の壁に田所氏の家族と一緒に撮した記念写真が大きく引き伸ばして掲げてあったtいうことであります。なお、この写真は、五月いっぱいまでで撤去し、現在は同氏宅に保存されてあります。
小生は田所氏に請うて、その原写真を借用いたしました。別送いたしますから、ご用ずみしだい、お返し願いとうございます。これは、小生名義で借用証がいれてありますから、くれぐれも紛失なきようお願いいたします。
   右、ご回答まで」
手紙はそれだけだった。写真を後送すると書いてあるので、実物を見るのはあと一日か二日遅れるであろう。
今西栄太郎は、初めて三木謙一が二度もその映画館に入っ理由がわかった。三木謙一は、映画館の壁に掲げてあった田所重喜氏一家の写真見たにちがない。
その写真には、映画館主の田所市之も写っていた。つまり、この館主は、崇拝す田所重喜氏一家との記念写真を、自慢げに、入場の観客に見せていたのであろう。
その記念写真が映画館に飾られてい期間は、手紙によれば五月いっぱいだった。したがって、三木謙一が映画館に入った五月九日も、当然、そこに掲げられていたことになる。
今西が旭館を調べに行ったのは、秋になってからである。記念写真は、彼の目には触れなかったわけだ。
今まで映画館といえば、当時、上映されフィルムしか考えていなかったのだが、それ以外の材料に三木謙一を上京させ動機が、こんな形で存在していたのである。
今西栄太郎は、伊勢署から送られて来る写真を待ちわびた。
今西は本庁に出勤するのに、久しぶりに心がはずんだ。家もいそいそと出た。こんなにたのしい気持も何年かぶりだった。
本庁へ九時に着いた。未だ若い刑事が二人しか来ていなかった。
「おい、郵便はまだかい?」
彼は一番に聞いた。
「はあ、まだです」
「いつも何時ごろかね」
「そうですな、もうそろそろです」
「ぼく宛に伊勢警察署から、写真を送って来ることになっている」
「気をつけておきます」
今西は落ちつかなかった。今朝ぐらい事件が起こらなければいいがと思ったことはない。事件が突発すると、そのまますぐに外に飛び出すのだ。郵便物が来ても、いつお目にかかれるかわからない。
十時近くになって、係長がやって来た。
「今西君」
係長は、自分の机から呼んだ。今西はひやりとした。外に出る用事でなければいいがと思った。
しかし、係長の話は、事件のことではなかった。事務上の打合せを二三しただけですんだ。
席に戻ると郵便物が配られている。今西の机にはのっていなかった。
「おい、ぼくに来なかったか?」
彼は郵便物分配す若い刑事に聞いた。
「いいえ、ありませんでした」
「おかしいな」
「今朝、あんなにおっしゃったので、気をつけてみたんですが、今の便には見当りませんでしたよ」
「あとの便は、いつ来るのかね?」
「午後三時ごろでしょう」
「うむ、ひょっとすると、それにあるかも知れない」
今西は、不満そうに、新米刑事の持って来た茶を飲んだ。
午後の郵便到着が待ちきれなかった。どう時間の消しようもな。これで、。それが明日にでもまわるとなると、今日の苛立ちをどう紛らわそうかと、苦労に感じたくらいである。
午後にかけての長い時間が過ぎた。
今西は三時前ごろから、自分の机に頑張った。急ぐこともない書類を書いたりして、しじゅう時計を見た。
2025/07/10
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