~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (下)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
航 跡 (三)
今西栄太郎は、吉村を電話で呼んだ。だいたいのことは彼に話してある。だから、写真が来たと言うと、吉村の声も張り切っていた。
「すぐ、うかがいます。どちらで会いましょう?」
「いや、ぼくの方から、そっちに行くよ」
「そうですか」
「蒲田駅の前で会おう。西口だ」
「わかりました」
二人は時間を決めた。
今西が蒲田にこっちから行こうと言ったのは、いつも渋谷ばかりなので、気分を換えるつもりもあったが、なるべく、あの事件の現場近くで話をしたいからだった。
刑事というのは不思議なもので、現場近くだと、その事件の雰囲気が蘇生して、気分が緊張する。
六時半というのが吉村と決めた時間だった。
今西は、例の写真を封筒に入れ、ポケットの中にていねいに納めた。
吉村は人混みの中にぼんやり釣ったていた。
「よう」
今西は、横から肩を叩いた。吉村はちょっと笑い、二人で肩を並べて歩き出した。
「どこで話しましょうか?」
「そうだな」
今西は商店街を見たが、適当なところがない。蒲田の商店街は細長い通りになっている。
今西は、菓子屋と喫茶店が兼用になっている店に入った。
ここだと、大きな声を出す酔っ払いはいないし、うるさくなくていい。それに、客といえば、、あんみつやしるこを食べる婦人が多いので、秘密な話をするにはちょうどよかった。
二人は、一番隅の席に陣取った。
「いよいよ、来ましたか」
吉村は、さっそく、今西の顔を覗き込んだ。
かわいい女の子にジュースを注文しておいて、今西はポケットから封筒を出した。
「これだ」
「拝見します」
吉村は封筒をありがたそうに受け取ると、中身をおもむろに引き出した。彼にしても待望の写真なのだ。
吉村は、写真の画面にじっと目を注いでいる。その目つきは、今西がはじめてそれを見た時にしたものと同じだった。
今西は、吉村の凝視を妨げないように、静かに煙草を吸った。
「今西さん」
吉村は顔を上げたが、目がぎらぎら光っていた。
「やっと発見しましたね」
「うん」
今西は応えた。
「やっとだ」
この顔を確かめるまでに、おれは、ずいぶん回り道をした。この顔こそ、三木謙一を東京に来させたのだ。
今西は、ふっと太い息を吐いた。吉村も、溜息で応えた。
注文のジュースが運ばれて来た。二人とも、渇いたときのように飲んだ。
今西も吉村も、その写真のことには、もう触れなかった。今は、触れる必要がないのだ。
あとは、事件の奥を、どのように追及していくかである。
「吉村君。君、いつか成瀬リエ子の住所を管内で調べてくれたことがあったね」
「はあ」
吉村はうなずいた。
「とうとう、だめでしたが」
「そうだ、だめだったな。ずいぶん、探してくれたようだけど」
「手のつくせる限りのことは、しました」
今西は紙吹雪の女 ── 成瀬リエ子の下宿先を吉村に探させたことがある。
成瀬リエ子は、今西の住んでいる近くのアパートを借りていた。それは、自殺騒ぎが起こって、はじめて今西にわかった。
成瀬リエ子という名前も、彼女が紙吹雪を中央線で撒いたということも、その自殺騒ぎを契機として、今西がはじめて知ったことである。
2025/07/11
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