~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (下)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
航 跡 (四)
今西栄太郎は、この事件が起こった当初から、犯人のアイトが蒲田駅からさほど遠くないとろろにあったと推定している。
それは、犯人が被害者の血を浴びていという想定からであ。当時、タクシーなどの乗物探したが手がかりはなかった。
今西は、犯人が歩いて近くのアジトに行き、そこで血染めの衣類を脱いだと推測していた。
そのことは、犯人が蒲田近くに居住していなかったという裏づけにもなる。
およそ、犯行を企む場合、自分の近所に被害者を呼び寄せるようなことはない。出来る限り、自分の顔を知られていない遠い土地で、犯行をするのが普通である。
したがって、蒲田駅を犯人が犯行現場に選んだとすれば、犯人はそれよりずっと遠方に居住していたと推定できるのだ。
しかし、やっかいなことは、犯人が現場の近く、衣服を着かえたのではないかという点だ。
こうなると、よほど親しい人間のところでないと、そういう行動は出来ない。この点から、今西は蒲田付近に住んでいる犯人の女を考えた。
その証拠は、成瀬リエ子が血染めのスポーツシャツを鋏で細かく切り、夜の中央線で汽車から撒き、証拠を湮滅したことでもわかる。彼女はあきらかに犯人と密接な連絡があった。
成瀬リエ子が今西の近所のアパートに引越して来たのは、事件後のことである。今西が自分の家に変える時、アパートの前に引越し荷物が来ているのを覚えている。当時、近所の噂では、新劇の女優さんが引越して来たと言っていたくらいだ。
が、実は、彼女は前衛劇団の事務員だったのだ。問題の女が、すぐ近所に住んでいたというのいは、知らないこととはいえ、今西にとっては皮肉であった。
では、移転前、彼女はどこに住んでいたか。アパートの管理人に聞いたが、それは、よくわからないと言っていた。彼女が引越して来る前の住所が知りたい。
今西は、成瀬リエ子の前住居を蒲田駅から遠くない所に想定した。
この意見から、当時、所轄署の吉村刑事は成瀬リエ子の顔写真を持って、管内をシラミつぶしに歩いたものだ。むろん、彼だけではない。刑事たちは八方に飛んで聞き込みにつとめた。
交通巡査にも、受け持ち区域を探させた。すべて徒労であった。
それきり、成瀬リエ子の前住所がつかめないままになっている。
「吉村君」
今西は言った。
「ぼくらは間違っていた。成瀬リエ子は失恋して自殺した。これは間違いない。だが、ぼくらはその相手を取り違えていたのだ」
「そうですね」
吉村も同意した。
「こうなると、もう一度、事件当時の成瀬リエ子の居住先を洗おう。彼女の写真は、君の署に保存してあったがずだったね?」
「あります」
「一度がその調査をやったのだ。しかし、どこかが洩れていたのだろう。ぼくは、また、必ず、彼女のいた所が、蒲田駅から歩いても二十分以内と考えている。犯人は操車場で犯行をやってから、そのアジトまで歩いていっている・・・・」
今西は煙草を吸って、つづけた。
「長く歩いていては、どうしても人目につく。疲労だけではなく、犯人にはそういう危険もあるのだ」
「そうですね」
吉村は何度もうなずいた。
「わかりました。もう一度洗ってみましょう。一度やったことですが、今度は重点的に、蒲田を中心に徒歩二十分以内の区域に絞ってみましょう」
事件後、かつて徹底的に調べたことだ。その時に何もなかったものが、今度やってみて、効果があるかどうか。
しかし、事態は新しいものに変わっている。吉村は、署に帰って捜査課長に報告し、再度の調査を進言することを今西に約束した。
「なにしろ。あれから、かなり時目が経っていますからね。あの時でさえ、手がかりがなかったのですから、今となっては、かなり再調査が困難だと思います。しかし、yってみますよ」
「そうしてくれ。前の調査のことは帳消しにして、はじめての仕事だと思って、ぜひ頼む」
2025/07/12
Next