ある朝だった。今西が、家で新聞を広げていると、文化欄の隅に次のような報道があった。 |
「作曲家和賀英良氏は、このたび米国ロックフェラー財団の招きにより渡米が決定した。同氏は今月三十日パン・アメリカン機で羽田をたち、当分ニューヨークに滞在する。同氏のアメリカ旅行は約三ヶ月で、その間、各地で同氏作曲による電子音楽の公開をするという。その後、同氏は、ヨーロッパ各地を回り、各国の電子音楽状況を視察する模様。日本に帰るのは四月末の見込み。同氏はその直後に、かねて婚約中の田所農相令嬢佐和子さんと結婚式をあげる」 |
|
今西はこれを二度読んだ。
有能な若い人は、どしどし世界に向かって行動をひろげていく。今西の目には、いつぞやの東北の寒駅「羽後亀田」で見たヌーボー・グループの顔が浮かんだ。
ふさいだ気持で本庁を出ると、もう吉村が来て、待っていた。
「ばかに早いね」
「はあ」
吉村の顔には疲労があった。今西はその表情を見て、ついに調査が成功しなかったことを知った。
「だめだったのか?」
二人は玄関のホールの片隅にたたずんだ。
「いけませんでした」
吉村はうなだれている。
「捜査課長も力を入れてやってくれたのですが・・・」
「調査をはじめて何日ぐらいになるかね?」
「もう一週間近くになります。調べるところは、ほとんど調べ尽くしたような気がします」
「そうか・・・・」
今西も腕組みした。
蒲田署は手を尽くしたに違いない。それは今西にもわかる。
だが、これだけ手を尽くしても成瀬リエ子の住所がわからないとなると、いったい、彼女はどこにいたのであろうか。
今西の見当違いだろうか。
蒲田近くに住んでいたということ。二つの私鉄の沿線に居住していたという推定 ──。これが全部間違っているのだろうか。
いや、そんなことはない、犯人は返り血を浴びて現場から逃走しているのだ。むろん、タクシーにも乗れなかったはずだ。夜の十二時過ぎの暗い通りを、犯人はそのアジトまで歩いたはずだ。
この場合、一応自家用車ということも考えられるが、それは今西の頭になかった。それを思いきって捨てた条件で彼は考えている。
かりに、蒲田付近と、二つの私鉄の沿線という推定が間違っていないとすると、今西の気づかない盲点の中に彼女は住んでいたのだろうか。
「吉村君」
今西は若い後輩の肩に手を置いた。
「いろいろ、ご苦労「だったな」
「いいえ、少しも成績があがらなくて申しわけありません」
「いやいや、こんなことで気をクサらせてはいけない。がんばるんだよ」
「はあ」
「まだまだ、ぼくらの力の足らないところがある。君、勇気を出してくれ」
「はあ」
「これほど手を尽くしてくれたのだから、ぼくも調査には遺漏がなかったと思う。だから、lこれはきっと、ぼくらの気づかない、何かこう、ぽっかり穴みたいなものがあるような気がするね」
「・・・・」
「吉村君、ある一面からみると、今度の調査も無駄ではなかったよ。なぜかというと、犯人のアジトは、普通の家にはなかったという証明になったんだもの。そうだろう? そうなると、ぼくらの考え方も自然とそこを離れて、別なところに限定されるわけだ。範囲が狭まったのだ。だから、無駄ではなかったよ」
彼は慰めた。
「今西さん。そう言ってくださると、ぼくもほっとします。おっしゃるように盲点みたいな場所があったのかも知れません」
「うむ、ぼくらは、もっと考えよう」
「考えます」
吉村も元気を取り戻したような目になった。
「それでは、捜査課長さんに、よろしく言ってくれたまえ」
「そう伝えます」
今西は若い同僚を本庁の玄関の外まで見送った。吉村の後ろ姿が明るい電車通りを渡っていく。
|
2025/07/12 |
Next |