「やはり、失くなるものですね」
今西はその間にも事務員と話した。しかし、のんびりとしたその言い方とは違って彼の胸はどきどき高鳴っていた。
「わかりましたわ」
衣装係女史はすぐ戻って来て今西に言った。
「いま日記を見たんです。すると、それは五月十二日になくなっています」
「五月十二日ですね?」
今西は、しめた、お思った。
「そうです。十二日に、ほかのレインコートを探して間に合わせています」
「では、十一日には、そのレインコートは、ありましたか?」
「はい、十一日には異常がありませんでした。員数はちゃんと揃っていました」
「その時の公演は、何時にすんだのですか?」
「終演は、午後十時だったと思いま」
「場所は?」
「渋谷の東横ホールでした」
今西の心はまたおどった。
渋谷と五反田は近い。五反田から蒲田までの池上線が出ている。さらに目黒はもっと近い。目黒から浦田まで目蒲線が出ている。
「そのレインコートは、どんな色でしたか?」
「少し濃いめのネズミ色でした」
ここまで言って、衣装係女史はふしぎそうな顔をした。
「わたしの方は、別に、盗難届を出さなかったのですが、それがいけなかったんでしょうか?」
「いや、そういうわけではありません。盗難届には関係ありませんよ」
今西は微笑した。
「しかし、盗難届とおっしゃったが、それは盗難でしたか?」
「いいえ、はっきり、それとは断定できません。でも紛失したことは確かですわ」
「それは楽屋に保管してあったのですか?」
「はい、そうです。公演がすんでしまえば衣装倉庫に保管しますが、公演中は楽屋においてあります」
「おかしいですな。楽屋に泥棒が入って来ることはありませんか?」
「それは、ないことはありません。でも、くたびれたレインコート一枚を持っていくような泥棒はいないでしょう。お金を盗まれたことはありますけれど」
「それがなくなったと気づいたのは、十二日のことですね。つまり、十一日の晩はレインコートがあって、無事に芝居が出来たが、そのあくる日の十二日には、芝居の前に紛失の事実わかったというわけですね」
「はい、そのとおりです。大あわてにあわてて、とにかく間に合わせました。宮田さんは背が高いので、長目のレインコートをさがすのに困りましたわ」
「なに、宮田君が?」
今西は思わず大きな声を出した。
「そのレインコートは宮田君の役でしたか?」
「そうなんです」
今西が大きな声を出したものだから、かえって女史の方がびっこうりした。
「そうですか。宮田君というと、もちろ、宮田邦郎さんのことでしょう?」
「そうですわ」
今西は呼吸まではずんだ。
「宮田君は自分の着るレインコートがないと知って、どんなふうに言ってましたか?」
「困る困る、とこぼしていました。そして、わたしに早く何とかしてくれと頼みました。昨夜は確かにあったのにおかしいなあ、と何度も首をかしげていましたわ」
「ちょと待って。その時の宮田君の出番は終演までありましたか?」
「はい、そのレインコートを着る芝居が最後だったんです」
今西は腕組みした。
宮田邦郎の死が急に大きく彼に迫って来た。
「ちょっと伺いますが、あなたの方に成瀬リエ子さんという女の事務員がいましたね。自殺した人ですが」
「はい、よく知っております」
「こんなことを聞いては悪いかもしれませんが、その宮田君とは懇意でしたか?」
今西は衣装係の女史に聞いた。
「さあ、特別、懇意というほどでもないでしょいうが、宮田さんは成瀬さんが好きだったようです」
それは以前に今西も聞いたことだった。
宮田邦郎が成瀬リエ子に想いをよせて、今西の近所のアパートの下に佇んでいたことも、彼自身が目撃している。
「その晩、宮田君は芝居がすんで、まっすぐに帰りましたか?」
「さあ、それは、わやしにはわかりませんわ」
衣装係女史は目尻に皺を出し微笑んだ。
「でも。あの人は、芝居がすむ、たいてい、一人で帰ったようです。酒もあまり飲まないし、友だちも少なかったようですから」
「成瀬さんはどうです?」
「それも、わたしにはわかりません。それは事務所の人がよく知っているでしょう」
彼女は横に立っている事務員振り向いた。
「さあ」
と、事務員は首を傾けた。
「何日にまっすぐ帰ったかなどと聞かれると記憶はありませんがね。しかし、成瀬君は、しごく真面目な人で、最後まで仕事をしていましたよ。途中で早退するということはめったにありませんでした」
「ここには、タイムレコーダーといったようなものはありませんか?」
「そんものはありません」
今西が知りたいの、五月十一日の晩、成瀬リエ子が途中で外出したのではないか、とい想像だった。
「成瀬さんの仕事は、途中で脱けることはできますか?」
「はあ、それは、やれないことはありません。何しろ、あの人の任務、芝居がすんだあとの総まとめですからね。開演中は、それほど忙しくないはずです」
事務員は、しかし、と言った。
「成瀬君にはそういう行動はありませんでしたよ。いつも公演の場所から離れない人でした」
「その時の場所は、東横ホールだったとおっしゃいましたね。だから、当然、成瀬さんも東横ホールにいたわけですね?」
「そうです。それは間違いありません」
これで、聞くことは終わったようだった。
「いろいろ、面倒なことをおたずねしましたね」
今西は、二人に頭を下げた。
|