~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (下)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
航 跡 (十一)
── しかし、思わぬ収穫があった。
舞台用の衣装のレインコートが、一枚紛失している。それは五月の十二日の発見だった。だから、紛失の事実は十一日の公演がすんだ直後ともいえる。十一日は蒲田殺人事件の日だ。
公演終了は午後十時だったという。蒲田操車場で被害者の殺された時間は、推定十二時から一時の間だ。
加害者がレインコートを血染めの衣服の上からすっぽりと着ると、誰にも見とがめられずにすむ。タクシーにだって悠々乗れる。
そのレインコートは、宮田邦郎が舞台で着るものだった。その宮田邦郎は成瀬リエ子に好意を寄せていた。
また、成瀬リエ子はある人物に熱烈な愛情を持っていた ── 糸はつながっている。
今西の記憶には一つの文章がある。
「── 愛とは孤独なものに運命づけられているのであろうか。三年の間、わたしたちの愛はつづいた。けれども築き上げられたものは何もなかった・・・。絶望が、夜ごとのわたしの夢を鞭うつ。けれども、わたしは勇気を持たねばならない。彼を信じて生きねばならない・・・。この愛は、いつもわたしに犠牲を要求する。そのことにわたしは殉教的な歓喜さえ持たねばならない。未来永劫に、と彼は言う。わたしの生きる限り、彼はそれを続けさるのであろうか」
自殺した成瀬リエ子の書き残しのノートの一節である。
この文章に、はっきりと「三年間の」と出ている。
成瀬リエ子が、前衛劇団に勤めはじめたのは四年前からである。最初、劇団に届けた住所からよそに移ったのが一年後だった。つまり、三年間、彼女には劇団にも秘密にしていた住所があったのだ。
今西の推定は確実な自信を持ってきた。
ノートは彼女の日ごろの感想ともとれるし、一種遺書とも取れる。その文中には恋人の名前はない。自らの心を書きつづけ、自らにうったえている文章だ。
成瀬リエ子はきっと慎重な女性ふぁったに違いない。このノートも他人の目に触れる場合をおそれて、恋人の名前を絶対に伏せていたのであろう。
それは彼女自身のためではない。相手の迷惑を考えての配慮だったのだ。
(この愛は、いつもわたしに犠牲を要求する)
彼女はこう書いている。
彼女は実際に犠牲となった。愛人のために劇団の衣装を盗み出し、愛人の待っている場所にそれを持参したのである。また、血染めのシャツを愛人のために小さく刻んで撒いたのも彼女である。法に触れる行為をしても彼女に悔いはなかったのだ。
(そのことに、わたしは殉教的な歓喜さえ持たねばならない)
今西は今まで間違えていたのだ ──。
彼女の愛人を間違えていたことだけではない。彼女がアジトを持っていたという推定も大きな過誤だった。
蒲田を中心に調査して、その隠れ家がわからないはずだった。そんなものははじめから存在しなかったのだ。
今西は順序を立てて想像してみる。
── ある男が人殺しを決心した。彼は自分の衣類に返り血がつくことに気づいた。そのままではタクシーにも乗れない。
彼は犯行前、公衆電話から東横ホールの前衛劇団に電話をかけた。遅い時間だったが彼女はまだ居残っていた。
彼は、上に着るものを持って来るように、彼女に命じた。場所も教えた。
彼女は、とっさに舞台衣装のレインコートを盗んだ。それは宮田邦郎の役が着るものだった。
もしかすると、彼女は宮田に内密にそれの持ち出しを頼んだかも知れない。そうだ、きっとそうだろう。でなければ、いくらレインコート一枚でも、自分の劇団のものを盗むことは、彼女の良心がとがめたであろう。
渋谷から現場まで、タクシーで行ってもわずかな時間だ。電車に乗っても、五反田か、あるいは目黒で乗り換えればよい。
彼女は暗い場所に立って待っている恋人と会い、そのレインコートを渡した・・・。
2025/07/15
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