彼は区役所の方へ歩いた。
ゆるやかな勾配を登った。近くに学校があるらしく、子供の騒いでいる声が聞こえていた。
丹後屋で聞いた話は、今西に一つの確信をつけさせている。
道を歩いていると、朝の澄んだ空気の中に、子供の騒ぎ声が一段と高く聞こえる。
騒々しい声だ。この声を聞いていると、また、音のことに連想が走った。
うるさい音。
不愉快な音。
今西には、一つの記憶がある。死んだ恵美子が最期にうわごとのように口走ったという言葉である。
(とめてちょうだい、ああ、いた、いや、どうかなりそうだわ。もうやめて、やめて・・・)
今西は歩く。
考えながら、うつむき加減に歩く。
電車が横を通って走った。
線路がカーブになっていて、電車は車輪をきしませてキーと金属音を立てた。いやな音だった。
いやな音、いやな音・・・・。
空に鳩がむらがっていた。明るい陽を受けて、鳩の翼が光っている。
区役所の建物の前に出た。
そばに老人の行政書士がいた。
「戸籍係はどちらですか?」
老人はペンをとめて、面倒くさそうに教えた。
「これを、おのまま行きなはれ、はいって突き当りの右側が戸籍係だす」
「ありがとう」
今西は石段を上って、、暗い建物の中に入った。
区役所の中に大勢の人が動いていた。
戸籍係の前に出た。窓口には、若い女事務員がいた。
今西は手帳を出した。
「ちょっと、うかがいますが」
「はい」
女事務員は顔を振り向けた。
「浪速区恵比須町二ノ一二〇にこういう戸籍がありますか?」
手帳ごと事務員に見せた。
二十二三の顔の平べったい女は、細い目で、今西のわかりにくい文字を覗き込んでいたが、
「ちょっと、お待ちください」
と立ちあがって、戸籍原簿の保管棚に歩いて行った。
彼女はそこで帳簿を繰っている。今西は、固唾を呑む思いで待った。
二三分間、待たされたが、やがて、その帳簿を抱えた女事務員が、今西の前に戻って来た。
「その名前の戸籍はございます」
「え、ありますか?」
「はい。確かに、その戸籍は原簿にもっています」
「それは、正真正銘ものですか?」
今西は、つい、口がすべった。
「もちろんですわ」
おんな事務員は怒ったように言った。
「区役所の原簿にインチキがあるはずがありません」
「それはそうですが・・・」
今西は、原簿に間違いがまくても、人が作為的に工作したということを考えている。
たとえば、他人の戸籍を無断で取る場合はよくあることだ。
「すみませんが、ちょっと、その原簿を見せてくれませんか」
彼は頼んだ。
「ぼくは、こういう者です」
今西は警察手帳を出して、自分が警察官であることを証明した。女事務員は、ちらりとそれを見て、
「どうぞ」
と、窓口から分厚い戸籍原簿を差し出した。
今西は戸籍原簿というと、紙が茶褐色に古び、隅などはぼろぼろになっているのを想像したが、この原簿はまだ新しかった。
問題の個所を見てみる。
本籍、大阪市浪速区恵比須町二ノ一二〇・・・・。
今西は、自分の手帳に控えたものと照合したが、一字一句違っていない。
「この戸主の英蔵さんも、妻のキミ子さんも、死亡年月日が同じですね。どちらも昭和二十年三月十四日死亡となっています。これは空襲でなくなられたわけですか?」
今西は確かめてみた。
「そうです。おの日、浪速区一帯は大空襲がありましてね、ほとんどの家が焼き払われました。そのお二人も、そのとき戦災死をなさったものと思います」
「やっぱりそうですか」
今西の注意は、戸籍原簿の新しいことにもう一度返った。
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