~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (下)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
ある戸籍 (七)
今西栄太郎は、朝、東京に着いて、一度、わが家に帰った。
「お疲れだったでしょ。こんなときは、ひと風呂浴びるといいんだけど、銭湯は十時からですからね」
妻は残念そうにそう言った。
今西は、まだ風呂桶を買っていない。わが家で風呂をたくのが唯一の懸案だが、まだ実現できなかった。家が狭くて場所もない。風呂桶を据えるとなると、どうしても建て増しをしなければならなかった。その費用がなかなか貯まらないのである。
「いいよ。あんまり時間もないし、一時間ほど寝るからな」
今西は、妻に、京都みやげの千枚漬けの樽を渡した。
「あら、大阪ということでしたが、京都までいらしたの?」
「ああ、われわれは仕事の上でどこに行くかわからない」
「京都って、いいとこですってね。一度、ゆっくり行ってみたいわ」
女房は千枚漬けのレッテルを眺めながら言った。
「ああ。定年になって、退職金でももらったら、一度、ゆっくり行こうよ」
どこに行っても、仕事だと見物する余裕もない。またその気持も起こらなかった。仕事で頭がいっぱいなのである。
昨夜は、京都からほとんど眠らないできた。車内が混んでいて、今西は通路に新聞を敷き、うとうととしたり雑誌を読んだりしてきた。
今西は畳の上に横になった。
「あら、カゼをひきますよ。いま、布団を敷きますからお着替えになったら?」
「いや、そんな暇はない」
妻は押入れから布団を出して、彼の体の上に掛けた。疲れて、顔がどす黒くなっている。
眠って間もないところを起された。
「もう十時ですよ」
妻は気の毒そうに傍にすわっていた。
「そうか」
今西は、布団をはねのけて起きた。
「眠いでしょ?」
「いや、ちょっと眠ったから、ずいぶん助かった」
今西は、冷たい水で顔を洗った。いくらか気分が晴々した。
「今夜は早いんでしょうね?」
あたたかい朝食を食べながら妻が聞く。
「ああ、早く帰る」
「ぜひ、そうしてください。でないと、体がもちませんわ」
「そうだ。以前は、ふた晩ぐらいつづけて徹夜の張込みをしても、平気だったがな」
今西は、熱い茶をすすった。
警視庁に着いたのは、十一時過ぎだった。彼は係長のところに報告に行った。
係長は熱心に聞いていた。
「わかった。ご苦労だったな」
そう言って、係長は一枚のメモを今西にくれた。
「君が参考として話を聞くのには、この人が適当だろう」
メモには「東京××大学教授工学博士久保田貞四郎」とあった。
今西栄太郎は、東横線自由ヶ丘駅に降りた。そこから東京××大学までは、徒歩で十分ばかりだった。
門を入りと、すぐ横に守衛詰所があった。今西が、そこで用件を言うと、守衛は電話をかけていたが、
「どうぞ」
と言い、行先の順序を教えた。
今西は、空に高々とそびえているポプラの並木の下を歩いた。学生が連れ立って歩いている。本館を過ぎてしばらく行くと、白い二階建ての洋館があった。
今西は、その玄関を入り、コンクリートの階段を二階にのぼった。
建物はかなり古い。コンクリートの廊下と白い壁を見ていると、肩が冷え込みそうな感じだった。
「久保田教授」と名札の掛かっている部屋の前に来た。
今西は、そこでちょっと服装を直し、ドアを叩いた。」
2025/07/27
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