~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (下)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
ある戸籍 (八)
中から、どうぞ、と声がかかった。
ドアを開くと、かなり広い部屋で、片方に机があり、一方の壁際には、会議室みたいな長いテーブルを取り巻いて、椅子がいくつも並べられてあった。
机の前には、五十過ぎの、痩せた紳士がすわっていて、今西の方を振り向いている。
「久保田先生でいらっしゃいますか?」
今西は聞いた。
「そうです」
教授は椅子から立った。微笑している。髪は、もう、半分白かった。
「警視庁の今西と申します」
直立不動の姿勢は癖になったいるのだった。
「さあ、どうぞ」
教授は歩いて、会議用の椅子に今西を招じた。
「恐れ入ります。お忙しところ恐縮ですが、今日はいろいろと教えていただきたいとおもいまして」
「ああ、電話をいただきました。音響のですってね」
「はい・・・私どもは、全然、ズブの素人ですから、なるべくわかりやすいように教えていただきたいのですが」
今西は恐縮したようにおじぎをした。
「さあ、うまく話せますかな」
教授はおとなしい微笑を見せる。
「やはり、それも犯罪捜査に関係があるんですか?」
「はい。ただ今のところ、はっきりはいたしませんが、先生のお話を一応うかがっているうちに、私どもの考えていることに結びつくような点が出て来るような気がいたします。つきましては、音でございますが、われわれが聞いている、この音というものが、ある機械装置で、どのように変化していきかを教えていただきたいと思います」
「機械装置でね」
教授は小首をかしげるようにして言った。
「さあ、それなら、まず、音の概念ということから、お話ししませんと、呑み込んでいただけないような気がしますが」
「はあ、よろしくお願いします」
むずかしい内容を覚悟して、今西は頭を下げた。
「そうですね、まず、われわれで言う音の概念から申しあげましょうか」
と、久保田教授は言い出した。
「音は、音楽とか、非音楽とか、騒音とか、純音とか、そのほか複合音、単音、協和音、上音というふうに分けています。音楽というのは、一定の周期で同じ波形を繰り返す音で、概して快感を与えます。たとえば、弦楽器だとか、管楽器の音、声の母音などですが、これは自然界にはほとんど存在しません。非音楽というのは、音楽ではない一切の音を指して、概して不快な感を与えると言われますが、音楽にも使われます。たとえば、足音、水音、風の音、電車の音、打楽器の音など現実の音は、音楽と非音楽とに分けられるはずですが、その境界は必ずしもはっきりしていません」
今西は、メモを取るのに一生懸命だった。
「騒音というのは、聞く人にとって聞きたくない音、すなわち邪魔になる音です。これは全く主観的な分類でして、たとえば、ラジオの音などは、他人がスイッチを入れた場合は騒音になり得るし、工場の音が騒がしい音とか、交通の騒音とかは、取り締まりの対象ともなることです。
次に、純音というのは、単一周波数の音で、自然界には存在せずに、人工的に発生します。これは正弦波形をもつ音です。
複合音というのは、周波数の違う多くの純音が集合したもので、音楽と同じものですが、その、それぞれの純音を部分音と言います。単音というのは、一つの基本音と、その整数倍の数は数をもつ倍音とから成る音楽です。協和音は、この単音の集合であり、また上音は、基本音を除いたすべての部分音のことです」
今西はメモを取っていく。
しかし、この段階では、彼の知りたいところにはまだ遠かった。
だが、こんなところから講義を聞いていかないと、いきなりこちらのツボには、入って行けないに違いない。
「わかりますか?」
教授は、学生のように筆記している今西の手元を覗き込んだ。
「はあ、まあ、何となく」
今西はあいまいに答えた。わかったようなわからないようなのが正直な気持だった。
教授は話をつづける。
「音波は、人の耳に聞こえることと無関係に存在するものです。可聴音とは、人の聴覚に感ずる範囲の中にある弾性波です。これを御覧ください」
と、教授は机の脇にある本棚から一冊の本を出して、図解の部分を示した。
「これは多くの人の平均の聴覚範囲を、周波数と強さについて示したものです。下の数字が周波数で、左側の数字が強さのレベルですね。右側は音圧です。聴覚の周波数範囲は、普通一万サイクルから二万サイクルまでせあると言われていますが、この図のよに、ようぃ音については範囲が狭くなります。強さの範囲についても、この図のように周波数によって違いますが、図の下のところの曲線は、最小聴覚価m、または可聴限界と言います・ですから、これより弱い音は聞こえないわけですね。この図の上部の曲線は、最大聴覚価または可覚限界と言い、これより強い音を聞くと、音以外に、むずがゆいとか、痛いなどの別の感覚を生じます・・・」
2025/07/27
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