~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (下)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
放 送 (六)
次に今西栄太郎が立ちあがった。彼は自分で整理した資料を身ながら話をはじめた。
「今度の事件は、まことに、われわれにたいへんな参考になりました。当人は、今日ひとまず、電波法違反で取調べを受けましたが、夕刻、帰宅させております。しかし私は、あくまで本人の犯罪を確信しております。
まず動機から申しあげますと、この点は、本人に対して同情を禁ずることが出来ません。
ここに本浦秀夫という男がございます。その父は本浦千代吉と申しまして、明治三十八年十月二十一日生まれで、昭和三十二年十月二十八日に死亡しております。母はマサといい、これも昭和十年六月一日に死亡しております。秀夫の四歳のときであります。本浦千代吉は、原籍地、石川県江沼郡××村でありまして、中年にしてライが発病し、マサと離婚しました。このとき、一子秀夫を手もとに引き取っております。
秀夫は、昭和六年九月二十三日生まれであります。
以上のことは、私が本浦千代吉の戸籍を取って調べたことであり、かつ、石川県江沼郡山中町まで出張して、マサの実姉の家を訪ねて、話を聞いて来たことであります。
本浦千代吉は、発病以後、流浪の旅をつづけておりましたが、おそらく、これは自己の業病をなおすために、信仰をかねて遍路姿で放浪していたことと考えられます。
本浦千代吉は、昭和十三年に、当時七歳であった長男秀夫を連れ、島根県仁多郡仁田町字亀嵩付近に到達したのでありました。このとき、亀嵩駐在所に三木謙一という親切な巡査がおりました。三木巡査は、本浦千代吉が業病を持ち、しかも、すでに末期症状と見て、ただちに隔離する必要を感じて、法令に基づいて、昭和十三年六月二十二日、仁田町役場よりの紹介で、岡山県児島郡××村の癩療養所『慈光園』に入園手続きをいたしました。このとき、規則によって、連れていた一子秀夫は父親と隔離され、しばらく、三木巡査が自己の造った保育園に預けていたと思います。
ここに、三木巡査についての性格を申しますと、同巡査は、まことに、立派な警察官でありまして、今でも、同巡査の善行は、同地方で語りぐさとなって伝えられております」
今西刑事は、お茶を一ぱい飲んだ。
「すなわち、同巡査は、村で貧乏の者があれば、わずかな給料でその家の家計を助け、山中に病人が出れば行って肩にかついで山をおり、村のもめごとがあれば仲裁をし、その美談の数々は、私が現地に行って、つぶさに聞いて知ったところであります。同巡査の性質からして、この哀れな本浦 父子の処置をした後、幼い秀夫を手もとに保護して、将来、これを適当な他家に養子縁組みさせ、成育させるような心づもりだったと想像されます。
ところが、すでに放浪性のある秀夫は、三木巡査の親切にもかかわらず、亀嵩を脱走いつぃまして、一人で、いずこともなく去っていきました。これが、そもそも今度の悲劇的な事件の発端であります・・・・」
今西はここで言葉を切って周囲を見まわした。どの顔も固唾を呑んで彼のあとの言葉を待っていた。
「本浦秀夫の消息は、それ以来、杳としてわかりませんでした」
今西はつづけた。
「おそらく、大阪方面へ向かったのではないかと思います。このことはあとで触れるといたしまして、三木謙一巡査は、ついに警部補まで昇進いたしまして、昭和十三年十二月、依願退職なさいました。まことに、同巡査の行動は、われわれ警察官の手本とすべきものがあります。
同巡査はその後、岡山県江見町において雑貨商を開業し、店員の彰吉を養子とし、それに妻をめあわせ、平和な老後の生活をいとなむようになりました。謙一氏は、ここでも仏さまのようだという近所の評判をとっております。
そこで、謙一氏は、長年、自分の夢であった関西方面への旅行を思い立ったのであります。すなわち、同氏は今年の四月七日、江見町を出発して、十日には岡山市に、十二日には琴平町に、十八日には京都というふうに、のんきな旅を続けていました。これは、養子彰吉にあてて、そのつど旅館から便りを出したことがわかったのであります。
かくて、謙一氏は五月九日、伊勢××町、二見旅館に投宿いたしましたが、たまたま、近所の映画館に映画を見にまいりました。ところが、その映画館で、同氏はまことになつかしい写真を見たのでござます。そのため、一度は映画館を出ましたが、もう一度、確かめるために、翌日、ふたたび同じ映画館に入っております。同氏が見たなつかしいものというのは、いったい何でございましょうか。
それは映画ではございません。映画館の中に掲げられていた、ある記念撮影の写真でございます。それには、その劇場主が最も尊敬する、現大臣の家族が写っておりました。しかし、家族だけではない。日ごろ同大臣の家庭にしばしば出入りしていた、ある青年の顔を発見したのでございます。この青年は音楽家でございまして、同時に、同大臣の愛娘の婚約者でもありました。三木謙一氏は、その写真についている説明書きを読みまして、その青年が現在若手の作曲家として活躍している和賀英良なる人物だということを知りました。
しかし、三木氏の目には、和賀英良ではなく、かつて自分が世話をした業病患者の子供の、本浦秀夫の面影を発見したのでございます。当時秀夫は、なにしろ七歳ぐらいでございまして、同巡査の印象もあやふやでございましたが、記憶力の強い同巡査は、二度目に確かめて、はっきり確信をもったのでございます。
もちろん、七歳の子供の顔と、三十歳の青年の顔とは、ずいぶん人相がちがいます。しかし、三木巡査は、その成長した容貌に幼い頃の特徴を見たと思います。第一線の巡査には、よく人相の記憶に特異質な人があります。同巡査も、そのような、珍しい人だったと思います。
同巡査はひじょうになつかしさを感じ、すぐに帰郷するその夜の予定を変更いたしまして、急遽、東京へ出て行ったわけでございます。
私が思いますに、同巡査は、写真の主に会うまでは、おそらく、まだ半信半疑であったのではないかと思います。しかし、記憶に誤りはございませんでした。同巡査は、二十三年ぶりに本浦秀夫に会うことが出来たのでございます・・・・。しかし、その出会いは、どのようにして行なわれたかはわかりません。これは、当人の自白によるほかはないのでございます。しかし、二人が出会ったことは確かでございます。そして、今年の五月十一日の午後十一時すぎ、蒲田駅前のトリスバーで、二人は落ち合ったのでございます・・・・。
当時、本浦秀夫は新進作曲家として将来を嘱望され、また現大臣の愛娘と婚約して、まさに前途有望、バラ色の人生を迎えていたのでございます。
しかるに、忽然として目の前に忌まわしき人物が現れたのでございます。もとより、三木謙一氏には他意はございませんでした。長い間別れていた秀夫の面影を伊勢で発見し、なつかしさのあまり、上京して面会したのでございますが、秀夫にとっては一大恐怖でございました。というのは、同氏の口から、もし、自分の前歴が暴露された場合、現在進行している婚約が破棄される可能性のあることはもちろん、そのような忌まわしい父を持っていたことも、また、せっかく、これまで経歴を詐称していたことも、ことごとく暴露するわけでございます。これは当人にとってはたまったものではございませんでした。おそらく、その時の驚愕、苦悶は、言語に絶するものがあったと想像されます。
ここにおいて、同人は自己の将来のために、あるいは自己の地位の防衛のために、三木謙一の殺害を思い立ったのでございます。これが蒲田操車場事件の殺人動機であります。
さて、いま、秀夫が経歴を詐称していたと申しましたが、和賀英良の経歴を、調べますと、同人は、原籍大阪市浪速区恵比須町二ノ一二〇和賀英蔵の長男としてうまれ、母はキミ子となっております。また、その生年月日は、昭和八年十月二日生まれと書いてあります。
ここで注意していただきたいのは、当人は昭和六年九月に生まれていながら、二年後の昭和八年に生まれてことにしてあることであります。
さらに、和賀英蔵とキミ子の死亡は、いずれも昭和二十年三月十四日となっておりまして、これは同日に大空襲がございまして、浪速区恵比須町一帯が焼野原となり戸籍原簿を保存しておりました浪速区役所も、法務局も全部、重要書類と共に灰燼に帰したのでございます。そして、このような場合、当人の届出によって、とくに戸籍が作成されることは、法律によって決められております。このに目を着けたのは秀夫でございまして、つまり和賀英良なる者は最初から存在せず、昭和二十四年に届け出たその戸籍は、全く本浦秀夫の創作でございます。十八歳の彼がそのような智恵をもったというのは、たいそうな早熟であり、天才的ですが、その動機が、自分の将来のため、業病の父の戸籍から脱出したいというところにあったと思えば、同情に値します」
2025/08/05
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