私たちの歴史はどこから始まるのか。実はなかなか難しいテーマです。
現代の研究によれば、日本列島に人が住み始めたのは旧石器時代と呼ばれる十数万年前とされていますが、だからといって日本に十数万年の歴史があるとはいえません。
このあたりは考古学の分野であり、「歴史」というからには、文字による記録が残っている時代、あるいは日本という国家体制らしきものが整った時代以降というべきだからです。
そもそも私たち日本人の祖先はどこから来たのでしょうか。今から一万~二万年前の日本列島は大陸と地続きの時期があり、朝鮮半島やカムチャッカ半島経由で、多くの動物とともに人間が移って来ますた。南方からも海を渡ってやって来ました。国家が誕生する以前の時代は、
縄文
時代と呼ばれていますが、縄文人のルーツははっきりしません。おそらく前述した様々な経路で日本列島にやって来た種々な人々が何代にもわたって混血して出来上がた民族です。
縄文時代は一万二、三千年前から二千八百年頃まで続いたとされていますが、このように長い年月をかけ、他国には見られない独特の文化や言語を持つ個性的な民族が形成されていきました。その民族の主たるルーツを調べるには、考古学の他に、言語学、民族学、宗教学などによるアプローチが必要ですが、現在はまだ定説と呼ばれるものはありません。いずれ周辺国の人々を含めた大掛かりな解析が進めば、かなりのことがわかるでしょう。
縄文時代の人々の生活は、採集・狩猟・
漁撈
ぎょろう
(魚介類や海藻をとること)が主で、本格的な農耕や牧畜は行なわれていませんでした。この時代の遺跡が北海道から九州にわたって数多く発見されていることから、縄文人が日本列島に広く分布していたことがわかります。彼らはおもに血族で、近くに川や湖がある小高い丘に
竪穴
たてあな
住居などを作って暮らしていて、おそらく人々の間に階級などはなかたっと考えられます。
ただし縄文人の集落や暮らしぶりについては、ここ三十年余の発掘や研究によって、それまでのイメージを大きく変える発見がされてもいます。その代表例が青森県青森市で調査が進む三内丸山遺跡です。紀元前約三九〇〇年~前二二〇〇年頃のものとされる約二ヘクタール(東京ドーム約九個分の広さにあたる)の大規模集落遺跡からは、竪穴建物遺跡のほかに、大型立柱建物跡が発見され、ここに暮らしていた縄文人が相当高度な土木技術を有していたことがわかっています。土木技術を裏付けるものとしてはほかに、大人の墓と子どもの墓、貯蔵穴、道路跡なども見つかっています。生活用品としては、膨大な量の縄文土器に加えて石器、土偶、土・石の装身具、木器(掘り棒、袋状編み物、編布、漆器など)や骨角器、さらに他の地域から運ばれたとみられるヒスイや黒曜石など、多彩なものが出土しています。また、ヒョウタンやゴボウ、豆などの栽培植物が出土し、DNA分析で粟の栽培がされていたことも明らかになっており、農耕衣生活の萌芽もえかがえます。縄文時代の文明分化については、今後の研究でさらに塗り替えられていくことも期待されます。
他方、当時の世界では、日本の縄文時代のものよりもはるかに高度な文明が誕生していました。中国の
黄河
こうが
・
長江
ちょうこう
流域、インド・パキスタンのインダス川流域、中東のチグリス・ユーフラテス川流域、エジプトのナイル川流域など(いずれも紀元前六〇〇〇~紀元前三〇〇〇頃)では、農耕技術が発展し、大規模な都市国家が生まれていたのです。それらの地の多くでは青銅や鉄といった金属器が使用されていました(日本の縄文時代には石器と土器しかなかった)
古代ギリシャで第一回オリンピックが開かれたのは紀元前七七六年、縄文人の多くがまだ竪穴住居で暮らしていた頃のことです。その後、古代ギリシャの王朝マケドニアからアレクサンドロス大王が出て、ヨーロッパからインドまで征服し大帝国を作ります。アレクサンドロス大王の教師は哲学者アリストテレスでした。アリストテレスは地球が球体であることを物理的・観察的な論拠から説得力をもって説明した「万学の祖」です(ギリシャでは球体説は昔からあった)。その後、アレクサンドロスの帝国が分裂し、ヨーロッパではローマが覇権を握ることになります。
同じ頃、インドや中国大陸にも高度な文明がありました。釈迦しゃかや孔子こうしが生まれたのはいずれも紀元前五〇〇年代ですが、当時これらの地域にはすでに文字による記録が残されています。ギリシャのヘロロトスが『歴史』を著わしたのは紀元前四〇〇年代であり、中国の司馬遷しばせんが『史記しき』を著わしたのは紀元前一〇〇前後のことです。
それらの地域に比べれば、日本はまだ文明的にははるかに遅れた地でした。しかし大きな戦争はなく、人々は前述のような集落を作って平和に暮らしていたと考えられます(考古学的資料には大戦争の形跡がない)。
縄文時代という名称は、この時代の遺跡から発見された土器(粘土をこねて作ったものを火で焼いてかたくしたもの)に、縄目のような模様が付けられていたことに由来します。私は縄文土器を見ると、つい一所懸命に網目模様を施していた先人の姿が脳裏に浮かび、微笑ましい気持になります。近代文明とはかけ離れた原始的な生活をしていた縄文人が、その暮らしの中に美しいものを求める心を持っていたことが感じ取れるからです。
縄文時代の人々の寿命については諸説ありますが、平均すると十五歳くらいだったといわれています。これは乳幼児の死亡率が高いためですが、十五年以上生き延びた人に限っても、平均寿命は推定三十歳くらいでした。女性の場合、十五歳から二年に一度出産すると仮定すると、八人くらいの子供を産むことが出来ます。しかし医療技術のない当時、出産は非常に危険なことであり、八人も出産できる女性はおそらく少なかったでしょう。生まれた子供の多くが乳幼児の頃に亡くなったことをも考慮すると、縄文時代の人々は人口を維持するのがぎりぎりであったと思われます。
今、この本を書いている私も、そして読者の皆さんも、縄文時代の女性が命懸けで産み、育てた子供たちの末裔です。飢餓、病気、戦争という過酷な環境の中で生き抜き、出産と子育てという営みが数千年以上繰り返されてきたこと、その結果、自分が今ここにいることを思うと、私は胸が熱くなります。 |