~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
弥生時代(紀元前十世紀~三世紀)
縄文時代には、採取・狩猟・漁撈が生活手段の中心でしたが、紀元前十世紀頃、北九州で 水稲 すいとう 耕作が始まり、これ以降の時代を「弥生時代」と呼びます。もっとも縄文時代と弥生時代の年代区分ははっきりしたものではありません。
弥生時代という名称は、縄文土器とは形状の異なる土器が最初に発見された地が、東京府本郷区向ヶ丘弥生町(現代の東京大学の近く)であることから付けられました。
かつては水稲耕作が始まったのは紀元前五世紀頃とされ、弥生時代もその頃かとされていm、あしたが、近年、考古学の研究が進み、水稲耕作跡の発見から弥生時代の始まりも一気に五百年ほど遡ることとなりました。水稲耕作は稲のDNAなどから中国大陸の長江流域から伝わったと考えられています。
その後、青銅や鉄といった金属の使用も始まりっました。これらの文化は大陸から朝鮮半島などを経由してやって来た人々が伝えたとされており、その頃から九州地方と大陸との交易はあったと考えられています。当時、東アジアにおいては¥、今の中国にあたる地域に圧倒的に高度な文明があり、そこではすでに鉄器が使われていました。
世界史的には青銅器時代から鉄器時代に移行するのに二千年以上かかったといわれています。鉄をかすには、銅やすず(青銅は銅と錫の合金)を溶かすよりもはるかに高い温度を必要としますが、それにはふいごの発明を待たねばならなかったのです。しかし日本にはほぼ同時に青銅器と鉄器の技術が入ってきたため、青銅器時代と鉄器時代の境がありません。我が国では、青銅器は儀礼に用いられたり(銅鐸どうたく など)宝飾として使われたりし、実用的な武器や鎌には鉄が用いられました。
水稲耕作は、日本を大きく変えました。人々は食料を大量に獲得出来るようになり、人口が増え、社会は飛躍的に発展したのです。また長い間、縄文人と弥生人は骨格の違い(弥生人の方が大きい)などから違う民族ではないかと考えられていました。すなわち日本列島に土着していた縄文人を、海を渡ってやって来た弥生人が駆逐していったのではないかという説が主流だったのです。しかし当時の航海技術では大量の人間を運ぶこと難しく、また大きな戦争の跡もないこと、さらに最近のDNAの研究などから、今ではこの説はほとんど否定されています。
両者の骨格の違いは、それまでの採集・漁撈中心の食生活から、米を主食とすることによる変化と考えるのが自然でしょ。大東亜戦争後に、欧米流の食生活へと変化したことによって、わずか半世紀で日本人の平均身長が10センチ近くも伸び、体格が大きく変わったことを見ても、食糧事情の変化が縄文人の体格を変化させた可能性は充分にあります。そう、縄文時代と弥生時代には民族や文化の断絶はなく、同じ日本人だったといえるのです。
稲作文化が日本人に変化を与えたのは身体だけではありませんでした。稲作には指導者が必要なため、その発達は人々の間に自然と上下関係を生じさせたと考えられます。またもみ が保存可能なことから、富の蓄積、貧富の差が生まれ、やがてそれらが人々の間に階級を生みました。肥沃な土地を求めて部族間の争いが起き、多くの原始小国家「クニ」のようなものが誕生したとも考えられます。
この頃のことを記した同時代の文書は日本にはありませんが、一世紀頃に編纂された中国の『漢書かんじょ』「地理志」の中に、「楽浪らくろう 海中に倭人わじんあり、分れて百余国「となり、歳時を持って来たり献見すと云う」というくだりがあります(楽浪とは現在の北朝鮮あたりにあった漢帝国のb支配地域)。倭人とは日本人を指します。つまり一世紀頃の日本には多くの原始小国家があり、漢帝国に朝貢ちょうこう(中国皇帝に貢物みつぎものを贈る行為)していたというのです。
また『後漢書ごかんじょ』「東夷伝とういでん」にも同様の記述があり、五七に倭の奴国なくにが使節を送り、後漢の光武こうぶ帝が印綬いんじゅを与えたという記録があります。約千七百年後の江戸時代に、筑前国ちくぜんのくに志賀島しかのしま(現在の福岡県福岡市)で発見された「漢委奴国王かんのわのなのこくおう」と刻印された金印がそれだと考えられています。
2025/08/09
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