~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
農耕生活と日本人
四季があり、恵まれた自然環境の中で暮らしていた縄文人は、「生物・無生物に限らず万物に霊魂が宿る」というアニミズムの思想を育んでいましたが、それが弥生時代にも受け継がれました。
稲の収穫が天候に大きく左右されることから、「自然界のあらゆるものに神が宿るという信仰文化がいっそう強まりま、後の神道へと発展していったと考えられます。
また稲作は多くの水を必要とするため、人々はそれまで生活していた小高い丘から、川の流れる平野部や濕潤地帯へと移り住みました。種まきや収穫の時などに、集落総出で方策を祈願する祭礼を行なうようにもなりました。たとえば秋の終わりに収穫を祝う「新嘗祭にいなめさい」もこの時期に原型が作られたと思われ、その後、大和政権の建国から現在まで宮中きゅうちゅうで連綿と行なわれている重要祭祀さいしの一つです。もっとも応仁の乱から戦国時代は多くの宮中祭祀が中断され、江戸時代に入ってから復活しました (新嘗祭も寛正かんしょう 四年【一四六三】~元文げんぶん【一七四〇】に中断)。ところが、これが大東亜戦争後、アメリカ占領軍の政策により、宮中祭祀・国事行為から切り放され、その祭日が「勤労感謝の日」という意味の異なる名称に変えられてしまいました。古代からの歴史のつながりを断たれてしまったことは残念な限りです。
統一国家へ
弥生時代の日本について最も詳しく書かれた重要な歴史書といえば、古代中国の『魏志』「倭人伝」(正確には『魏志』の中の「東夷伝・倭人の条)です。当時の大陸は『三国志さんごくし』でお馴染みの「しょく 」の三国時代であり、日本はこの中の魏と交流していました。
伝聞や臆測が多く含まれている『魏志』の「倭人伝」を重要視する必要なないといういけんもあります。しかし、当時の日本を書いた希少な記録ですから、やはり一級の史料であることは間違いないでしょう。
『魏志』には、日本では二世紀半ばから後半に内乱が続いたと書かれています。これは「倭国大乱わこくたいらん 」と呼ばれていますが、その規模や期間には諸説があり、詳しいことはわかっていません。『魏志』によれば、その内乱を鎮めるために、小国の王たちが擁立したのが邪馬台国やまたいこく卑弥呼ひみこだとされています。
とはいえ、邪馬台国は絶対的権力を備えた中央集権国家ではなく、連合国家であったようです。『魏志』には、卑弥呼が魏に朝貢したのは、二三九年とあります。この頃、邪馬台国は魏や、その後に成立したしんと交流を行なうほどの国になっていたと考えられるのですが、その邪馬台国がどこにあったのかが今も不明なのです。遺跡や遺物から畿内説が有力ではありますが、決定的とはいえず、九州説をとる学者もいます。
私は、後述するいくつかの理由で九州にあったのではないかと考えています。
2025/08/09
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