~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
統古代の日本社会と日本人
『魏志』「倭人伝」には、日本人の性格や日本社会の特徴についての記述もあります。
そこには「風俗は乱れていない」「盗みはしない」「争いごとは少ない」とありますが、歴史書にわざわざ記すくらいですから、当時の魏の人々にとって、これら日本人の特徴は非常に珍しいものだったに違いありません。こうした記述は、多くの歴史研究者にとっては些細なことであり、見過ごされがちですが、私は敢えてここに注目します。
千八百年も前の私たちの祖先が、他人のものを盗んだり、他人と争ったりしない民族性であったことを、心から嬉しく思うのです。
もうひとつ注目すべき記述は「その会同・座起には、 父子男女の別なし」というものです。つまり集会の席では長幼や男女の区別がなかったということです。ここには女性を一段下に見る文化はありません。おそらく魏の人にとっては、これも変わったことに見えたのでしょう (風俗や文化の記述は当たり前のことは記されない傾向がある)
卑弥呼は『魏志』「倭人伝」に「鬼道を使って人を惑わす (従えた) と書かれていることから、一種のシャーマン (巫女) であったと考えられています。もしかしたら「日巫女」であったかも知れないと言う人もいます。
卑弥呼は二四七年か二四八年に死んだとされていますが、実はこの年に不思議なことが起きています。九州地方と大和地方でかなり大規模な日蝕にっしょくが見られたのです。これは現代の天文学でも明らかになっていて、日時まで特定されています。月が太陽の光を遮ることで日蝕という現象が起きることは、現代では子供でも知っていますが、天文学の知識のない古代人にとっては、太陽が突如、姿を消すというのは、とてつもなく恐ろしい出来事だったと想像できます。
その日蝕が起こった年に卑弥呼が亡くなっているのは果たして偶然でしょうか。作家の伊沢元彦いざわもとひこ氏は、卑弥呼は転変地異の責任を取らせられて殺された可能性があるという説を唱えていますが、卑弥呼が太陽神を祀る「日の巫女」であるならば、うなずける説ではあります。証拠はありませんが、こういうおとを想像することも歴史のロマンであり、愉しさではないでしょうか。
また『日本書紀』の中にある天照大神あまてらすおおみかみ (『古事記』では天照御大神) が「天岩戸に隠れたことで、世の中が真っ黒になった」物語は、日蝕の暗喩だたっという説があり、これをもって「卑弥呼=天照大神」と考える人もいますが、太陽神が隠れて世界が闇に覆われるという話は、古代中国、東南アジア、ヨーロッパの神話にもあり、決して珍しいものではありません。二人が同一人物というのは非常に魅力ある説ではありますが、私は賛同しません。その理由は後に述べます。
倭とは何か
『漢書』をはじめとする古代中国の歴史書には、日本は「倭」と書かれています。
「倭」という文字には、「小さい」「従順な」という意味がありますが、決していい意味を表わす文字ではありません。中国では昔から周辺国の国名や人物には、賤しい意味を持つ文字を当てる例があります。国名では「匈奴きょうど」「鮮卑せんぴ「奴国」などですが、邪馬台国にも「邪」という賤字が使われ、卑弥呼にも「卑」という賤字が付けられています。 『後漢書』 「東夷伝」の「夷」も賤字です。
最初は文字を持たなかった日本人も、やがて漢字を習得すると、「倭」がいい意味の字ではないということがわかってきました。そこで七世紀中頃から同じ「わ」と言う音を持つ「和」という字を使うようになりましす (六六八年の天智天皇てんちてんのうの即位から「和国」の文字が使われるようになったという説がある)。ちなみに「日本」という国号が正式に使われるようになったのがいつ頃かははっきりしませんが、六八九年の「飛鳥浄御原令あすかきよみはらりょう」において、「日本」という国号が使われています。
ここで一つ疑問が生じます。なぜ魏の人が日本を「倭」と呼んだのかということです。私は、魏に赴いた使節が自分たちのことを「わ」と言ったのではないかと想像します。日本人は昔も今も、自分のことを「われ」「わし」「わがはい」「わたし」「わが」「わい」などと言います。古い日本語が多く残っていると言われる東北地方の一部には、今も「わ」おいう言葉が残っています。古代中国へ渡った使節、「お前たちは何者だ?」と訊かれて、自分たちのことを「わ」と言ったのではないか。それを聞いた中国人が、記録に「倭」ないし「倭国」と書き、その呼び名が日本に逆輸入されたのではないでしょうか。もちろん文献が残っているわけではなく、私の推測にすぎないことを断わっておきます。
2025/08/10
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