限定的とはいえ、日本の初の統一国家となったとされる邪馬台国が、後の大和政権となったのかどうかは不明です。私は邪馬台国が大和政権になったのではないと考えています。
大和政権の歴史書である『古事記』『日本書紀』(併せて「記紀」と呼ぶ) には、卑弥呼のことも邪馬台国のことも書かれていません。大和政権が邪馬台国なら、当時の大国であった魏から「王」に任ぜられ、多くの宝物を授かった出来事が一切記録に残されていないのは不自然です。このことが、私が、「邪馬台国畿内説」をとらない理由の一つです。同様に「卑弥呼=天照大神」も正しくないと考えています。二人がともに「太陽」と関係があるのも、弟がいたというのも偶然の一致だと思います。歴史にはこうした偶然の一致がままあります。また「日蝕=天岩戸伝説」も「日蝕」の記憶が語り継がれて神話に取り入れられたのではないでしょうか。
私は、大和政権は九州から畿内に移り住んだ一族が作ったのではないかと考えています。記紀にも、そのようなことが書かれています。いわゆる「神武じんむ東征」(神武東遷ともいう)です。
『日本書紀』によれば、天照大神の子孫である神武天皇は九州から瀬戸内を通り、大阪平野に入ろうとしますが、長髄彦ながすねひこと戦って敗れます。そこで神武天候は大阪を大きく迂回して和歌山の熊野から大和平野に入り、その地方で力を蓄え、あらためて長髄彦と戦って破ったと、記紀にあります。これは神話であって事実ではないと捉える学者が少なくありませんが、作り話にしては、妙にリアリティがあります。わざわざ負ける話を創作するのも不自然です。また、熊野は古来、大和政権にとって神聖な地です
こういったことから、「神武東征」は真実であったと私は考えます。もっとも『日本書紀』によれば神武天皇の即位は紀元前六六〇年となりますが、さすがにこの年代は考古学的にも信じるに値しません。
ただし神武天皇が邪馬台国の末裔かどうかはわかりません。前述のように、記紀に卑弥呼に関する記述がまったくないからです。『魏志』「倭人伝」には邪馬台国は狗奴くな国と戦っているという記述がありますが、私は、その後、この狗奴国が滅ぼしたのではないかと考えています。神武天皇は邪馬台国を滅ぼした狗奴国の流れを汲む一族の出身ではないかと考えられるのですが、これを証明する文献も考古学的資料も存在はしません。
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