~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
大和政権が生まれるまで
限定的とはいえ、日本の初の統一国家となったとされる邪馬台国が、後の大和政権となったのかどうかは不明です。私は邪馬台国が大和政権になったのではないと考えています。
大和政権の歴史書である『古事記』『日本書紀』(併せて「記紀きき」と呼ぶ) には、卑弥呼のことも邪馬台国のことも書かれていません。大和政権が邪馬台国なら、当時の大国であった魏から「王」に任ぜられ、多くの宝物を授かった出来事が一切記録に残されていないのは不自然です。このことが、私が、「邪馬台国畿内説」をとらない理由の一つです。同様に「卑弥呼=天照大神」も正しくないと考えています。二人がともに「太陽」と関係があるのも、弟がいたというのも偶然の一致だと思います。歴史にはこうした偶然の一致がままあります。また「日蝕=天岩戸伝説」も「日蝕」の記憶が語り継がれて神話に取り入れられたのではないでしょうか。
私は、大和政権は九州から畿内に移り住んだ一族が作ったのではないかと考えています。記紀にも、そのようなことが書かれています。いわゆる「神武じんむ東征」(神武東遷ともいう)です。
『日本書紀』によれば、天照大神の子孫である神武天皇は九州から瀬戸内を通り、大阪平野に入ろうとしますが、長髄彦ながすねひこと戦って敗れます。そこで神武天候は大阪を大きく迂回して和歌山の熊野から大和平野に入り、その地方で力を蓄え、あらためて長髄彦と戦って破ったと、記紀にあります。これは神話であって事実ではないと捉える学者が少なくありませんが、作り話にしては、妙にリアリティがあります。わざわざ負ける話を創作するのも不自然です。また、熊野は古来、大和政権にとって神聖な地です
こういったことから、「神武東征」は真実であったと私は考えます。もっとも『日本書紀』によれば神武天皇の即位は紀元前六六〇年となりますが、さすがにこの年代は考古学的にも信じるに値しません。
ただし神武天皇が邪馬台国の末裔かどうかはわかりません。前述のように、記紀に卑弥呼に関する記述がまったくないからです。『魏志』「倭人伝」には邪馬台国は狗奴くな国と戦っているという記述がありますが、私は、その後、この狗奴国が滅ぼしたのではないかと考えています。神武天皇は邪馬台国を滅ぼした狗奴国の流れを汲む一族の出身ではないかと考えられるのですが、これを証明する文献も考古学的資料も存在はしません。
銅鐸の謎
私が神武東征を事実と考える根拠の一つが銅鐸です。
二~四世紀の日本には、 銅矛 どうほこ 文化圏と銅鐸文化圏がありました。現在の歴史教科書では「文化圏」という言葉は使われなくなりましたが、本署では敢えて使うこととします。
畿内から中国地方の東部が銅鐸文化圏で、九州から中国地方西部が銅矛文化圏です。この二つの文化圏は、基本的に重なっていません (近年、一部の例外があることが判明)。異なる二つの国があったと考えられるのです。
二つとも青銅器ですが、銅矛は武器であり、銅鐸は祭祀に使われたものとされています。ところが銅鐸は三世紀頃から突如として使われなくなった形跡があります。そして、中国地方 (特に 出雲 いずも ) の遺跡から発掘される銅鐸は、丁寧に埋められており非常に多いのです。まるで大事なものを隠すために埋められたかのようだと言う学者もいます。もしそうなら、理由は何でしょうか。見つかると危険だから、こっそりと埋めたと考えるのが自然です。つまり新しい為政者が銅鐸を使う祭祀を禁じた可能性が考えられます。
一方、大和平野の奇跡で発掘される銅鐸の多くは壊された形で見つかっています。
大和平野といえば、大和政権の最初の本拠地です。その地から発見される銅鐸の多くが、人為的な力を加えて破壊されているということは意味深長ではないでようか。
世界の歴史を見ても、征服民が被征服民の宗教を弾圧し、その施設や祭祀の道具を破壊する行為は珍しくありません。つまり奈良にあった銅鐸文化を持った国を、別の文化圏の国が侵略し、銅鐸を破壊したと考えれば辻褄が合います。
もし神武天皇に率いられた一族が銅鐸文化を持たない人々であり、大和平野に住んでいた一族が銅鐸文化を持つ人々であったとしたら、どうでしょう。神武天王の一族が銅鐸を破壊したとしても不思議ではありません。そして後に大和政権がじわじわと勢力を広げ、中国地方の銅鐸文化圏の国々を支配していく中で、被征服民たちが銅鐸を破壊されることを恐れてこっそりと埋めたとは考えられないでしょうか。
もちろん、そうしたことを記した史書はありません。というより、そもそも『日本書紀』や『古事記』に銅鐸に関する記述が一切ないのです。畿内でこれほど大量に見つかる銅鐸の記述がないのも不自然です。そうしたことに加えて、中国地方から出土する銅鐸が丁寧に埋められ、奈良で出土する銅鐸の多くが、破毀されていること、さらに記紀の「神武東征」の記述から、私は大和政権は銅鐸文化圏の国家でなかったと考えています。
『古事記』と『日本書紀』には、天照大神が大国主命おおくにぬしのみことから葦原中国あしはらのなかつくにを譲られる話 (国譲り神話) があります。この葦原中国は出雲あたりと考えられますが、もしかすると、大和政権が出雲地方を征服した話が「国譲り神話」となって残ったのかも知れません。
2025/08/10
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