日本の歴史を語る際に避けて通れないのが、朝鮮半島との関係です。二世紀から三世紀にかけて、日本がたびたび朝鮮半島に兵を送っていたという記録が、朝鮮の資料に残っています。『日本書紀』にも「三韓征伐」の記述がありますが、これは事実関係も年代もはっきりしていません。朝鮮の記録にある日本からの派兵は、地理的な条件から考えると九州の王朝からのものであった可能性が高いと私は見ています。
四世紀半ば以降も、日本はかなり積極的に朝鮮半島に兵を送って、この派兵については『日本書紀』などにも記述があります。当時の朝鮮半島は北の
高句麗
、東の
新羅
しらぎ
、西の
百済
くだら
の三国が鼎立していました (この三国は民族が異なっていたともいわれている)。『日本書紀』などによれは、日本は半島最南部の
弁韓
べんかん
(
加羅
から
、
加耶
かや
とも) と呼ばれていた地方に兵を進め、三六九年には新羅と戦い、百済を従属させました。そして弁韓を
任那
みまな
と名づけます。三九一年から四〇四年にかけては、百済と新羅の連合軍を破り、さらに高句麗とも戦って、朝鮮半島の南半分近くまで進出しました。
当時、海を越えて遠征するのは容易なことではありませんでした。戦闘でのリスク以前に渡航に大きなリスクがあります。兵の食糧の問題もあります。にもかかわらず、日本 (大和政権とは限らない) は、幾度も朝鮮半島に兵を送りました (鉄資源を求めためというのが通説)。この史実は、日本の当時の国力が相当大きかったことを意味し、加えて日本にとって朝鮮半島の一部きわめて重要な地域であったことを示しています。もとは同じ一族が住んでいた可能性も考えられるのですが、それらを示す資料はありません。
後述しますが、七世紀に百済が新羅と唐の連合軍に攻められて滅亡した時にも、日本は百済再興のための兵を送っています。この時代、他国を再興するために海を越えてまで派兵を行なうのは大難事です。それを敢えてやろうというのですから、古代の日本にとって百済が単なる友好国ではなく、特別な関係の国だったと見るのが自然です。ちなみに百済があった地方では、日本式の前方後円墳に近い古墳が十四基発見されています。いずれも日本の前方後円墳よりも後の時代のものであることから、この地域が日本の文化圏に組み込まれていたとも考えられます。ただ残念なことに、日本と百済が具体的にどのような関係であったのかを知る記録はありません。
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