~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
朝鮮半島との関係
日本の歴史を語る際に避けて通れないのが、朝鮮半島との関係です。二世紀から三世紀にかけて、日本がたびたび朝鮮半島に兵を送っていたという記録が、朝鮮の資料に残っています。『日本書紀』にも「三韓征伐」の記述がありますが、これは事実関係も年代もはっきりしていません。朝鮮の記録にある日本からの派兵は、地理的な条件から考えると九州の王朝からのものであった可能性が高いと私は見ています。
四世紀半ば以降も、日本はかなり積極的に朝鮮半島に兵を送って、この派兵については『日本書紀』などにも記述があります。当時の朝鮮半島は北の 高句麗 こうくり 、東の 新羅 しらぎ 、西の 百済 くだら の三国が鼎立していました (この三国は民族が異なっていたともいわれている)。『日本書紀』などによれは、日本は半島最南部の 弁韓 べんかん ( 加羅 から 加耶 かや とも) と呼ばれていた地方に兵を進め、三六九年には新羅と戦い、百済を従属させました。そして弁韓を 任那 みまな と名づけます。三九一年から四〇四年にかけては、百済と新羅の連合軍を破り、さらに高句麗とも戦って、朝鮮半島の南半分近くまで進出しました。
当時、海を越えて遠征するのは容易なことではありませんでした。戦闘でのリスク以前に渡航に大きなリスクがあります。兵の食糧の問題もあります。にもかかわらず、日本 (大和政権とは限らない) は、幾度も朝鮮半島に兵を送りました (鉄資源を求めためというのが通説)。この史実は、日本の当時の国力が相当大きかったことを意味し、加えて日本にとって朝鮮半島の一部きわめて重要な地域であったことを示しています。もとは同じ一族が住んでいた可能性も考えられるのですが、それらを示す資料はありません。
後述しますが、七世紀に百済が新羅と唐の連合軍に攻められて滅亡した時にも、日本は百済再興のための兵を送っています。この時代、他国を再興するために海を越えてまで派兵を行なうのは大難事です。それを敢えてやろうというのですから、古代の日本にとって百済が単なる友好国ではなく、特別な関係の国だったと見るのが自然です。ちなみに百済があった地方では、日本式の前方後円墳に近い古墳が十四基発見されています。いずれも日本の前方後円墳よりも後の時代のものであることから、この地域が日本の文化圏に組み込まれていたとも考えられます。ただ残念なことに、日本と百済が具体的にどのような関係であったのかを知る記録はありません。
広開土王碑
日本の朝鮮進出については、明治一三年 (1880) に清の 集安 しゅうあん (現在の中華人民共和国 吉林 きつりん 省集安市)で発見された「 広開土王碑 こうかいどおうひ (石碑) にも記されています。広開土王 ( 好太王 こうたいおう )は高句麗の第十九代の王で、石碑には彼の業績が彫られており、これが四世紀から五世紀初めにかけての朝鮮半島と日本の関係を知る貴重な資料となっています。
碑文には日本は「倭」と記されていますが、それが大和政権を指すのか、あるいは九州の豪族を指すのかな不明です。
原文は漢文であり、その中に「三九一年に倭が海を渡って、百済と新羅と加羅を破り、臣民した」という記述がありますが、現代の北朝鮮と韓国の学者たちは気に入らないのか、まったく逆の解釈をしています。北朝鮮の学会は、「三九一年に高句麗が海を渡って、倭を破った」という強引な解釈をし、韓国の学会も「三九一年に高句麗は海を渡っ百済を破、新羅を救って臣民とした」と、これまたあり得ない解釈をしています。
もっともさすがにこれはかなり苦しい解釈であることを自覚したのか、在日韓国人の歴史学者 李進熙 イリジヒ が、大日本帝国陸軍による 改竄 かいざん 捏造 ねつぞう 説を唱えたりもしましたが、後の原石拓本の発見によって、改竄などなかったことが確認されています。
ただ、日本軍が高句麗に敗れたことはたしかなようで (広開土王碑には四〇四年に高句麗が倭を破ったと彫られている)、これ以降、日本は任那だけを支配することになります。
しかし韓国の学会は、古代に日本が任那を支配していたということ自体が気に入らないようで、第二次世界大戦後、このことを認めないように日本の学会に要求までしています。その影響でしょうか、今日の日本で使われている歴史教科種の多くから、日本の任那支配の記述が消え、加耶 (加羅) 諸国と独立国群であったかのおうな記述に変わっています。これは歴史に対する冒瀆であると私は考えています。
2025/08/11
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