四一三年から四七八年に」かけて、日本の五人の王が中国の
東晋
、
宋
そう
、
南斉
なんせい
、
梁
りょう
に少なくとも九回朝貢した記録が残っています。この五人の王は「倭の五王」と呼ばれていて、中国の記録によれは、その名は
讃
さん
、
珍
ちん
、、
興
こう
、
武
ぶ
となっています。日本の歴史学者の間では、讃→
履中
りちゅう
天皇、珍→
反正
はんぜい
天皇、済→
允恭
いんぎょう
天皇、興→
安康
あんこう
天皇、武→
雄略
ゆうりゃく
天皇という説が有力とされていますが、私はどうも納得がいきませ
ん。
まず中国の記録の中にある名前が天皇の本名 (諡号とは別) とかけ離れています。
学者たちは、なぜ中国の史書でそんな名前が付けられたのかという理由をいろいろ挙げていますが、いずれも強引なこじつけのようで、そこに法則性がありません。また『古事記』にも『日本書紀』にも、前述の天皇が中国に朝貢したという記述はありません。さらに五人の王は、中国から倭国王 (正式名称は、「使持節都督しじせつととく倭・新羅・任那・加羅・秦韓しんかん・慕韓ぼかん六国諸軍事安東あんとう大将倭王
」) などに任命されていますが、そうした記述もないのです。そのためか、倭の五王は九州王朝の王だったのではないかとする説を述べている歴史家もいます。
ところで前述の倭王の正式名称を見ると、中国は、倭王を朝鮮半島の大半を支配している王と見做しているようです。もっとも「倭の五王」に関する中国の史書自体の信頼性が高くないという説もあります。いずれにしても、三世紀から六世紀にかけての日本の王朝のことは、今のところよくわかっていないのが実情です。
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