~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
倭の五王
四一三年から四七八年に」かけて、日本の五人の王が中国の 東晋 とうしん そう 南斉 なんせい りょう に少なくとも九回朝貢した記録が残っています。この五人の王は「倭の五王」と呼ばれていて、中国の記録によれは、その名は さん ちん 、、 こう となっています。日本の歴史学者の間では、讃→ 履中 りちゅう 天皇、珍→ 反正 はんぜい 天皇、済→ 允恭 いんぎょう 天皇、興→ 安康 あんこう 天皇、武→ 雄略 ゆうりゃく 天皇という説が有力とされていますが、私はどうも納得がいきませ
ん。
まず中国の記録の中にある名前が天皇の本名 (諡号とは別) とかけ離れています。
学者たちは、なぜ中国の史書でそんな名前が付けられたのかという理由をいろいろ挙げていますが、いずれも強引なこじつけのようで、そこに法則性がありません。また『古事記』にも『日本書紀』にも、前述の天皇が中国に朝貢したという記述はありません。さらに五人の王は、中国から倭国王 (正式名称は、「使持節都督しじせつととく倭・新羅・任那・加羅・秦韓しんかん慕韓ぼかん六国諸軍事安東あんとう大将倭王 」) などに任命されていますが、そうした記述もないのです。そのためか、倭の五王は九州王朝の王だったのではないかとする説を述べている歴史家もいます。
ところで前述の倭王の正式名称を見ると、中国は、倭王を朝鮮半島の大半を支配している王と見做しているようです。もっとも「倭の五王」に関する中国の史書自体の信頼性が高くないという説もあります。いずれにしても、三世紀から六世紀にかけての日本の王朝のことは、今のところよくわかっていないのが実情です。
古墳時代
かつての歴史教科書では、四~六世紀は「大和時代」あるいは「大和朝廷時代」と呼んでいましたが、近年の考古学研究の進展により、この時代にはいわゆる統一国家はなく、したがってその政府を意味する「朝廷」も成立していなかったという見解が一般的となり、同時代を「古墳時代」と呼ぶようになりました。今ではその王朝は「大和政権」と呼ばれることが多いようです。
古墳は三世紀後半から、畿内から瀬戸内海沿岸を中心に日本独自の「前方後円墳」が出現・発達し、五世紀に入ると、突如として大阪平野の南部に非常に大きな墳墓が作られるようになりました。大阪府堺市にある大仙陵だいせんりょう古墳 (伝仁徳にんとく天皇陵) は、最大長八四〇メートル、最大幅六五四メートル、墳丘長四八六メートルという巨大なもので、その規模は世界最大級です。同じ大阪府の羽曳野はびきの市にある誉田御廟山こんだごびょうやま古墳 (伝仁徳天皇陵) も大仙陵古墳に次ぐ大きさです (体積は大仙陵古墳を上回る)
こうした巨大古墳は、当時の王朝がかなりの国力を持っていたことの証であり、同時にその王の権力の強大さがうかがえます。しかも同じような前方後円墳が日本各地に作られていることから、大和政権の力がほぼ全国にわたっていたとも考えられます。
不思議なことは、なぜ巨大古墳が突如、大阪平野の南に現れたのかです。時期的には、前述の「倭の五王」時代に重なりますが、私は、九州から畿内にやって来た王朝が大阪平野に勢力を広げたのではないか (九州王朝による二度目の畿内統一) と想像しています。ただし残念ながらこれも文献資料はありません。
大仙陵古墳は現在、宮内庁により「仁徳天皇陵」とされていますが、考古学者の中には否定的な見解も少なくありません。他の多くの古墳についても、宮内庁が認めている天皇陵に考古学者が異論を唱えているものがあります。
令和三年 (二〇二一) の現在、宮内庁が管理する陵墓は七百四十三 (陵が百八十八、墓が五百五十五) です。これらは研究者による自由な発掘調査が出来ないため、多くの古墳が謎を残したままです。宮内庁によって応神天皇陵とされている誉田御廟山古墳も実際は誰の墓なのか不明だという研究者がいます。これらの古墳を調査するには、宮内庁の認可が必要なのですが、過去に大規模な発掘調査が認められたケースはほとんどありません。それでも近年は、考古学会の要望に応えて、修復のための調査として研究者の立ち入りが認められることもあります。平成三〇年 (二〇一八) 十月には、宮内庁と堺市が大仙陵古墳を共同で発掘しています。
2025/08/13
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